2012 週刊文春 7/26号

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週刊文春 2012年7月26日号

文春図書館 活字まわり
「世界の全ての記憶」 植島啓司 18

あるときクレアがたずねた。「スコーピー、海がなつかしくならない?」老人は簡単になんのためらいもなく答えた。「わしは毎晩夢のなかで海へいくんだよ」
 
ロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏Ⅰ ジュスティーヌ』
 一年間で二百日は旅を続けている。以前は海外が多かったけれど、ここ数年は国内をくまなく歩いている。「そんなに歩きまわっていて、どこが一番よかったですか?」と聞かれるのだが、国内では「紀伊半島、特に熊野あたり」と答えることにしている。本当はよかったところは無数にあって、そう簡単に答えるわけにもいかないのだけれど。
 だいたい旅に出る時には、旅先のことは考えないようにしている。普通の人々はいろいろ前もって調べたり、予約したりするのだが、そんなことは一切したことがない。この夏もスリランカ、英国、タイ、ラオスへ出かける予定にしているけれど、いまだに航空券以外何も手配していない。以前モロッコに出かけた時も宿などまったく考えずに出かけ、バスを降りて群がる子どもたちに、チップをあげるから君はバッグを見張っておけ、君は安くていい宿に案内しろとか命じて、ツイン十ドルの快適なゲストハウスにチェックインしたのだった。だいたい日本人が好みそうな五千円から八千円くらいのホテルが一番よくないことは経験からわかっている。十ドル以内で泊まり、時々二万円くらいのゴージャスなホテルに泊まって快適さを満喫するのが最も賢いやり方ではないかと思っている。
 さて、旅に出る時には、旅先のことは考えないけれど、旅から戻ってからは、旅のことばかり考える。夢のなかで幾度も反芻する。そうすると実際に起こったことと起こらなかったことがからみあって、たった一度の旅が豊かにふくらんでくる。そういう旅こそが本当の旅ではないかと思うのである。


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