2012 kotoba 冬号

[集英社クオータリー] コトバ第6号 kotoba 2012年冬号
特集=男と女、死ぬまで恋したい。
株式会社集英社
2011年12月6日

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P56- 59

なぜ人には愛人が必要か

「一夫一婦制」「貞節」― これまで、伝統的な道徳観念にしばられてきた
男と女は、はたして幸せだったのだろうか?離婚率が増加する現在、
これまでの倫理観はすでに破綻しているのではないだろうか?
人間が本当の意味で幸せを感じられる新しい社会規範を提案する。

植島啓司(宗教人類学者) 文

もし愛人がいなければこの人生は生きるに値しない?
 これまで普通の男には考えられないような生活をしてきた。ほとんど毎日を旅で過ごし、女と酒を飲み、ギャンブルに明け暮れる。そんな暮らしをしていたら、ろくなことにならないと言われながらも、そんな毎日が積み重なってすでに還暦を突破してしまった。不自由なことは何一つない。このまま死ねたら本望だと思っている。
 しかし最近、周囲の男性たちを見ていてわかってきたことが一つある。年をとると男には楽しいことが何もないということだ。そろそろ仕事も引退して悠々自適の生活に入ろうとしているわけだが、今の六〇歳以上はこれまでとは比較にならないほど若いので、なかなかそう簡単に年貢を納めるわけにもいかない。やりたいことがいっぱいある。しかし、いっぱいあってもそれをやる勇気がない。生きる気力を支えるものがない。
 そんなとき、”愛人がいなければこの人生は生きるに値しない”ということにハッと気づくのだ。どんな楽しいことでもそれを一緒に喜べる相手がいなければ何の意味もないということに。東野圭吾の『夜明けの街で』(角川文庫)が二〇〇万部を突破したのも、そういう背景があったからではなかろうか。「不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。妻と子供を愛しているなら、それで十分じゃないか。ちょっとした出来心でつまみ食いをして、それが元で、せっかく築き上げた家庭を壊してしまうなんて愚の骨頂だ」という冒頭の独白なんて、男だったらだれだって思っていることだ。でも、そうなってしまうのにはいろいろ理由があるわけである。
 ただし、いまや「愛人」といっても、かつてのように権力や富をもった男が独占的に女を所有するというのではない。愛人の意味合いも変わってきていて、単に夫婦関係の外で交際し、理解し合い、愛し合う相手のことをそう呼ぶようになっている。男女ともに職業を持つのが当たり前になってくると、経済力よりもむしろ愛情の有無が重要になってくる。そして、男女ともに(基本的には)そういう相手と運命をともにする気はない。
 そう書くと誤解を生むかもしれないので、ここで念のためにお断りしておくと、もちろん男性だけではなく、女性にも愛人が必要だと思っている。男性だけが一方的に愛人を必要としているわけではない。男女では多少ニュアンスが異なるだろうが、どちらかといえば男女ともにそういう関係をもつほうがフェアではなかろうか。では、どうしてそういうことになったのか。その背景について少し考察を加えてみよう。

女性にもたくさんの選択肢ができた
 結婚したら死ぬまで相手に尽くし、他の異性には目もくれずに過ごし、家族に看取られて死ぬというのが、これまで当たり前と思われてきた。しかし、そういう一夫一婦制を支える倫理観は破綻しつつある。いまや三、四組に一組が離婚するような世の中なのだ。結婚そのものについて考え直さなければならない。もともと人間は生きているかぎり人を愛するようにできているわけで、一人を選んだら一生他の相手を拒絶しなければならないというほうが不自然あったのではないか。
 そういう変化を支えてきたのが八〇年代以降の社会状況の変化で、形式的には男女雇用機会均等法の施行(一九八六年)によるところが大きいかもしれないが、それは社会全体の要請でもあった。つまり、それまで女性は結婚して家を出る他に選択肢がなかったのだが、八〇年代からはもっと多様な生き方が求められるようになってきたのである。たとえば、結婚する以外にも、愛人でいることや、シングルマザー、そして独身をとおすことも可能となった。
  一九九〇年代半ば、ぼくはちょうどそういう変化を経験している世代を対象にした『35歳』(NHK)という番組のキャスターをやっていた。そして、当時の三五歳、すなわち、一九六〇年前後生まれの人たちから「マスオさん現象」(妻の親との同居)、「アッシーくん」(遅くなっても車で送り迎えしてくれる便利なボーイフレンド)、「濡れ落ち葉」(定年退職後の夫たちで、追い払っても妻のそばをべったり離れない)とかいう言葉がはやりだし、それまでの考え方が一新されていくのを目の当たりにしてきたのだった。
 そんなふうにして、男性が女性に優しくなったというのには、男女が同じ権利と義務をもったということが背景となっており、どちらも働くとなれば、炊事や洗濯、掃除を分担するのが自然ということになってきたのである。お互いに経済的に自立しているとなれば、つまり、あらゆる面で対等ならば、男性も女性に従うべき場面が多くなったというだけのことである。
 そうなると、男だけに一方的に許されてきた人間関係が変化するのも当然の成り行きで、男性が不倫するように女性も不倫にあこがれるようになってきた。これまでも、女性の側が結婚後も複数の男性と交際してきたという例は決して少なくない。それはマルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アナイス・ニンらの生き方を見てもわかるし、日本でも岡本かの子が夫の一平と愛人を一緒に住まわせたことがよく知られてる。
 ところが、最近ではその傾向に歯止めがかからなくなってきている。いまや不倫とか愛人をもつことが一般の女性にまで広がってきているのである。たとえば、『サンデー毎日』(二〇一一年一〇月一六日号)には次のような発言が載っている。

「この間、アラフォー先輩5人と食事をしたら、全員が不倫経験者。ビックリする私に『オンナの30代は深いわよ~』と皆さんのご助言。なにがあるの、オンナの30代!」(アパレル・30歳)

「付き合ってきた男性は皆、誠実で、浮気をするタイプではない(と思う)のですが、困ったのは私。浮気性なんです。平和な感じが続くと刺激が欲しくなる。あと、決まった相手がいて落ち着いちゃってますけど、私、まだイケてますかね?と試したい気分もあって、隠しているわけでもないのに、バレません」(人材派遣・28歳)

 こういう傾向を強く非難する向きもあるだろうが、ぼくはむしろ好ましい傾向だと思っている。かつてのように愛情もないのに離婚できず、つらい思いをしながら一生を終えるのに比べたら、「愛情がなくなったから別れる」とか「好きになったらその人とも付き合いたい」とか「できればみんなまとめて面倒みたい」といったことを堂々と言える世の中が、そんなに悪いものとは思えない。

いっぱい愛人をもつ女性たち
 この地上に存在した多くの社会のなかには、「愛人」がうまく社会に組み込まれている例がたくさん見られている。以前に書いた『オデッサの誘惑』(集英社)や、最近出した『39歳』(メディアファクトリー)でも紹介してきたが、そこからいくつかの例を取り上げてみよう。
 たとえば、イヌイットでは、昔から「明かりを消して」というゲームをして、セックスの相手を交換し合い、北極の長く暗い冬を楽しむという習慣があったという。なんだか楽しそうでわくわくしてこないだろうか。北部ナイジェリアでは、妻が最初の夫と離婚せずにもう一人の男と結婚する例が報告されている。最初の結婚はまだ幼いうちに親が決めたものだが、二度目の結婚は自分自身による選択である。それでも、彼女はどちらとも交渉を続けることになるのがいいところで、そのほうが精神的な安定につながるのかもしれない。アマゾン河流域のクイクルでは、結婚して数カ月もするとだれもが愛人をつくることになるのだが、ほとんどの村人が四人から一二人の愛人をもっており、それを社会が公に認めている。南太平洋のある社会では、妻を貸したり、友人間で妻を取り替えたりするのだが、それによって男たち同士の協力が強化されることになるという。同じ部族に属するすべての男たちに互いの妻と関係することを許しているところもある。むしろ、妊娠期間中だけは夫とのみ性的関係を結ぶべしという奇妙なルールさえ存在したのである。
 さらに、ここでは田川玄が報告しているエチオピアの例を取り上げたい。そのタイトルがいい。「男が戦いに行くように女は愛人をもつ」というもので、副題に「南部エチオピアの父系社会ボラナの結婚と婚外のセックス」とある。
 ボラナは南部エチオピアと北部ケニアにまたがる父系社会で、人口は約三〇万、牧畜と農耕を生業としている。このボラナ社会では「ほとんどすべての既婚女性には愛人がいる」という。しかし、性規範が乱れているというわけではない。彼らの社会では、女性は結婚すると夫の出自集団に入る。もし妻が愛人の子どもを産んだとしても、その愛人は父親とはならない。「ボラナにおいて父親とは出産した女性の夫であり、子どもと名前の連なる人物なのである」(田川)。だから、妻がだれの子を産んだとしても、その子は夫の嫡出子であり、彼の出自集団に属することになっている。
 ボラナでそれが可能となるのは、子どもが自分と遺伝子的につながっていなくても一族の系譜がつながることを第一とする彼らの社会規範ゆえであろう。さまざまな感情的な問題はあるだろうけれども、一族の繁栄という点では、むしろ妻も愛人をもつことは好ましいことだと思われている。だから、「男が戦いに行くように女は愛人をもつ」というのには、男が戦いで手柄をあげるように、女もがんばって愛人をゲットして周囲の評価を高めるべきだというニュアンスが含まれている。男性も愛人がいないと嘲りを受けるというが、女性も愛人がいないと「弱虫」と罵られることがあるという。
 一方、この社会ではいったん結婚すればある程度セックスの自由は獲得できるものの、未婚女性のセックスは厳しく禁じられている。なかなか合理的なシステムではないか。だいたい一人の相手と結婚によって一生結びつくのはいいが、他の相手とのセックスや恋愛感情まで押し殺さなければならないというのは、非人道的な制度と言わざるをえない。それに対して、ここでは「愛人のいる愛妻家」という表現も可能となってくる。それこそ男女ともに理想のカップルの姿ではなかろうか。

「貞節」よ、さようなら
 おそらく一夫一婦制が当たり前という習慣にならされ、それを守るために「貞節」という義務をお互いに課してきたわけだが、そんなふうになったのは日本でもここ二〇〇年くらいのことであって、それがいかに偏狭なものだったかということが見直されている。いわゆる「未開社会」と呼ばれる人々の暮らしのほうがよっぽど進んでいて、お互いに寛容なことがわかってきている。
 ジャック・アタリは『図説「愛」の歴史』のなかで、われわれの社会に訪れる次のような変化を予言している。「一夫一婦婚の解消不可能性は時代錯誤であり、封建時代から続く幻想だとして告発されるだろう。貞節は偽りであり不自然、ほとんど残酷な約束事だとして嘲笑されるだろう。離婚はもはや失敗体験とはみなされないだろう」。
 それについて、たとえば、二〇〇七年、ドイツのキリスト教社会同盟の党首選に立候補したガブリエル・パウリ女史は、「結婚七年満期制」という”公約”を発表している。彼女は「多くの結婚は、愛情ではなく、ただ安心感を手放さないために続いている」と批判し、七年経って、もし合意が得られなければ、自動的に関係は消滅するという新しい結婚形態を提案したのである。
 これまでだったら、一緒にいて当たり前、別れるのは人生最大の不幸と思われていたのが、そうなると、別れるのが当たり前で、七年経過しても婚姻関係を継続しようと二人で確認し合うことが逆に大きな喜びと化すわけで、まさにこれこそ発想の転換であろう。さまざまな試練もあるだろうが、何より男性も女性も複数のパートナーと好ましい関係を築くことができるような社会規範の成立こそ、今、最も求められているのではなかろうか。

note:
ヘレン・E・フィッシャー『結婚の起源』どうぶつ社(1983年)
和田正平『性と結婚の民族学』同朋舎(1988年)
ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか』草思社(1993年)
マーガレット・ミード『男性と女性』東京創元社(1961年)
田川玄「男が戦いに行くように女は愛人をもつ」『セックスの人類学』春風社(2009年)
ジャック・アタリ『図説「愛」の歴史』原書房(2009年)

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