1985 is 29号

季刊 panoramic magazine is (No. 29)
特集=擬態プレイ
ポーラ文化研究所
1985年9月10日発行

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目次
擬態を生きる時代 対談・中村雄二郎×日高敏隆
女装譚の諸相 川村二郎
擬態としてのバッハスタッター 柳瀬尚紀
制服・ロボット・独身者 装置としての制服世界 伊藤俊治
コンテストのたくらみ 梶原景昭
性交換の不思議 植島啓司 ★
擬態としてのポスト・モダン建築 対談・長谷川尭×石井和紘
ニセモノ愛玩時代 柏木博
VISUAL 擬態の快楽
擬態ランダム
 世紀末の擬態 エッフェル塔考 池内紀
 セルフ・オブリタレイション 草間彌生
 鏡と写真の中の仮装 土田ヒロミ
 托卵鳥の擬態 樋口広芳
 オーナメントろじーとしての擬態 ケルト美術の装飾原理 鶴岡真弓

P26- 27
性交換の不思議
植島啓司

●「自分」が発見される
 自分自身からうまくのがれ得たと思うような状態こそ、かえって自分自身が陥るもっとも巧妙な罠なのかもしれない。異なるものへと次々に姿を変えても、それは<法則>を強化することになり、ますます正体は明らかになってしまう。
 これは意外にやっかいなことで、われわれは蜘蛛が糸をひくように、動けば動くほど、みごとな幾何学的文様をつくり上げてしまうのだ。
 このことを逆手にとると、相手をつかまえる一つの効果的な戦術がうかび上がってくる。
 つまり、誰かの目の前にまったく別のものを提示しておいて、そこに「自分」を探させるのだ。与えられるものは何でもいい。自由に恣意的に選ばれる。いかなる考慮もなされてはならない。
 まったく無謀なゲームと思われるかも知れないが、予想どおり、提示されたものが当人と正反対であるようなものであればあるほど、不思議に「自分」は発見されやすいのである。
 このことは非常に応用範囲の広い戦術である。と言うのも、実はそこには背後にコミュニケーションを支える「原理」のようなものがひそんでいるからなのである。

▲ 雑誌表紙の異装
 まず、一九六七年四月号の「プレイボーイ」(Playboy)誌の表紙を見てみよう(注)。
 カバー・モデルは男性の格好をした若い女性で、バックのプレイボーイ風の男性の膝にすがっている。モデルは魅力的ではあるが、不思議に性的アピールに欠けている。それが第一印象である。
 だが、よく見てみると、不可解な点が幾つも見出される。たとえば、モデルの表情にしてみてもそうだ。そこには、ただ一つのくぼみ、線、しわ、陰翳さえ見出されない。顔の輪郭はシャープだが、平面的な印象は拭い去ることができないだろう。
 この表紙写真を催眠状態の数名の人々にテストすると、みなモデルの表情を「仮面」と同一視した。両眼の部分が顔と分離しているように見えるとの指摘もあった。どこか不自然なのである。
 ストレートで粗野な感じのする髪は、あきらかにウィグ(かつら)である。男性用の帽子が深くかぶられているため、両眼の部分はかげになっている。眼に陰翳をつけるのは、専門家にとっては常識ではあるが、その人物がなにか秘密を持っていることを表す場合に多い。
 白いシャツは女性的な胸のラインをかくしている。「プレイボーイ」などの男性誌では(たとえ男の衣服をつけたにしても)、豊かな胸を強調するのがふつうであるはずなのに。
 モデルの右手は、水玉模様のネクタイを、あたかも愛撫するかのようにやさしくつまんでいる。左手はと言うと、それは後方の男性の脚部にやや強くおしつけられており、その部分だけとると、かすかな不安や憂慮を表明しているかのようにもとれる。
 さて、仮面とブロンドのかつらの背後にいったいだれがひそんでいるのだろうか。
 以上のことから推理するに、可能性はただ一つ、実はこのモデルは「ボーイッシュな格好をした女性」に変装している男の子なのである。
 そうなると、バックの人物は誰か。もし前のモデルが男の子ならば、プレイボーイのもとに庇護を求めるようなしぐさは不適当だ。
 たとえば、横縞のスラックスであるが、女性用ならばともかく、男性衣料品店ではほとんど売られることのないものである。ベルトのバックルにしても、男性用はふつう四角形に近く、女性用のは円形であることが多いと言えよう。
 そう、実はバックの人物は、男性に見せかけた女性、彼の「母親」を表しているのである。
 つまり、表紙の人物の性は逆転させられているのである。前の人物のしぐさは、父親に怒られて母親にすがりつく男の子のしぐさを表しているのだ。そういう時に、子どもは無意識に母親の性器の近くに頭を寄せるのである。また、おびえた男の子は、よく自分のペニス(この場合はネクタイで表示)をつかみ、不安から身を護ろうとするのである。
 W・B・キイ、は既に『潜在意識の誘惑』(一九七三)のなかで、「プレイボーイ」の表紙の約七十%がなんらかの形で母親的表象をともなっていると指摘している。
 なんと手のこんだことをするものだろう。伊藤俊治は、人間は男と女の間を揺れ動く運動態である、と論じているが(「セックス・シアターのフリークス」<『裸体の森へ』所収>)、この場合など、それを巧妙に逆手にとっている。
 そういえば、このカバー・モデルは、八十年代のセックス・シンボルといわれるスルカと、どこかしら共通点があるようにも感じられる。
 さて、ついでにもう一つの例を見てみよう。一九七三年一月…..(つづく)


(注)以下の分析は、W. B. Key, Media Sexploitation, Prentice-Hall, 1976. pp. 16- 35. に依拠する。今秋、リブロポートより翻訳刊行予定である。