南方熊楠邸をたずねて

2025年2月14日

ある日、南方熊楠邸を訪ねるという話になった。白浜にある南方熊楠記念館の大西館長(当時)が言い出したのだと思うが、はっきりとは覚えていない。たしかに大西館長と二人で出かけたのだった。かねてから知り合いだった大西さんとは当時親しくさせてもらっていた。ぼくの義父母が田辺出身で、はまゆう養護学校の校長を務めていた関係で記念館にもたびたびお邪魔させてもらっていたのである。

その日もいつもと変わらずに南方熊楠の家に一緒に行きましょうと誘われて何気なしに同行したのだった。旧居ともいえるそのお家には娘さんの文枝さんがおひとりで住んでおられたのである。文枝さんのお母さんの松枝さんは田辺の闘鶏神社のご出身であり、うちの義父母の家はそのすぐ裏に面していて、以前から親しみを感じていたのだった。

お家に着くといろいろと世間話があって、「父の熊楠の資料がマスコミの方々が借りに来たりして散逸しないか心配だ」という話になった。「庭にある資料の所蔵庫もどなたかに管理していただかないと困るし」と文枝さんが話されると、大西さんは「実は、先生にそれをお願いしたいということで今日はうかがったんです」と言う。「先生のような大学教授の方に預かっていただければ安心ということで、率直にいうと、今日は文枝さんとの養子縁組ができないかの相談なんです」。

まさかそんな大切な話が出るとは夢にも思わなかったぼくはさすがに焦ったし、どう返答していいかわからなくなってしまった。文枝さんは笑顔でその話を聞いておられるし、すぐには答えられないのは当然で、どうやって帰ったかも覚えてないくらいだった。

それからいろいろあって、結局、植島姓がなくなってしまうのも問題ありだし、いろいろ不具合なこともあって、後に養子縁組の話はなしになったのだが、それはそれでよかったと思っている。南方熊楠のような偉大な人物はぼくの手に負えないし、もっと地道に資料を調査したり、全体像をまとめあげたりする方々にお任せするのが一番いいと思ったのだった。

それからも熊楠研究家の有志たちと神島(かしま)に渡ったり、また何度か旧居を訪ねたりもしたのだが、その後、ニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチに客員教授として赴任したり、インドネシア、ネパールなどで海外調査をする方向に興味が向かっていってしまったのだった。一九九〇年代のことだった。

keiji ueshima