週刊文春 2011年2月24日号
文春図書館 活字まわり
「世界の全ての記憶」 植島啓司 2
人はみな一生を待って過ごす。生きるために待ち、死ぬために待つ。トイレットペーパーを買うために並んで待つ。金をもらうために並んで待つ。金がなけりゃ、並ぶ列はもっと長くなる。眠るために待ち、目ざめるために待つ。結婚するために待ち、離婚するために待つ。雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ。食べるために待ち、それからまた、食べるために待つ。頭のおかしい奴らと一緒に精神科の待合室で待ち、自分もやっぱりおかしいんだろうかと思案する。
C・ブコウスキー『パルプ』
たしかに、よく考えてみると、人生の大半はたてい待つことで費やされているような気がする。いつも時計を見ながら、次に何をするか考えている。約束の時間が近づいてくると気が気ではなくなってくる。なんともあわただしい。
しかしながら、先のことばかり考えていると、目の前の「いま」を生きるのではなく、いつも先まわりして考えていた「いま」を生きることになってしまう。果たしてそれでいいのかどうか。
われわれは、実際、ブコウスキーの言うように、「雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ」ような日々を送っているわけだけれど、雨が降らないと文句を言い、雨が降れば降ったで、いったいこの雨はいつまで続くのかと不平をもらす。雨が降るのを心待ちしていたにもかかわらず、今度はそれがすべての悪の根源とされるのである。
どちらかといえば、雨が降ることも好ましく、雨が止むこともまた好ましいと思いたいのに、どちらも肯定できないというのは困ったものではないか。だから、すべてを受け入れるためには、「いま」自分の身に起こっていることだけを見つめなければいけないのだ。起こることも起こらないことも、どちらも、それはそれでひとつの人生なのだから。