1992 GA 4月号

GA (Glass and Architecture) April 1992
特集=消す 
株式会社綜建築研究所
1992年4月15日発行

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目次
p02 音を音で消す 騒音のアクティブ・コントロール 浜田晴夫
p04 塗るは消す 身体の消去 植島啓司 ★
p07 経年変化を消す 内田祥士
p10 海馬の秘密 隠れた記憶 酒田英夫
p12 光と色の旅8 沖縄 横山良一
p14 新亜洲建築家8 琉球編1 那覇のサンシン弾き 村松伸
p18 技術レポート スパンドレル用カラーガラス オパシライトの特徴 野口文夫
表2 バリオの風景2 ジョージアの夢を追って 今福龍太
表3 ガラストピックス 熱反カーボ
COVER写真 黄泉の町 荒木経椎

P4- 6
塗るは消す 身体の消去
植島啓司

表すことは消すことだ 
なにかを表すということは、同時に、なにかを消すということでもある。だいたいわれわれがなにかを知覚するというのも、別のさまざまな感覚的インプットを消去して、それを選び取るということである。それならば、なにかを消し去ることによって、なにかを表すということも当然考えられていい。
 ヴェルーシュカのボディ・ペインティングが意図したところがまさにそれで、彼女は背景の壁やドアや窓― 生命もなく、時として崩壊しかけている― と完全に同化しようとする。
 身体にペインティングすることによって、自らの存在を消去するということ、そこには二重の戦略が含み込まれている。まず、彼女のモノと一体化したいという願望は、直接的にマゾヒスティックなメッセージを伝えてくれる。彼女は、そこにいて、そこにいない。となると、さまざまな解釈が可能となる。だが、そういった解釈を裏切るのもまた彼女自身なのである。背景が歪んだり錆びついたりしているほど、彼女自身の存在感は逆に大きくなるのだ。あくまでもそこに存在するのは、ボディ・ペインティングを施されたヴェルーシュカなのである。なにを見せるか、なにを隠すか、それはほとんど同一の行為なのだ。われわれは美しいものを見せようとし、醜いものを隠そうとする。しかし、隠すこともまた強調することに他ならない。

隠すことを顕わにする戯れ
シャルル・フーリエ* は、ある饗宴について、次のように語っている。「そこでは、全員が、賞讃に値する美しいところを裸にして見せること。上半身、胸もとだけが美しい女は胸もとだけをのぞかせる。背中から尻にかけて、臀部だけが美しい女、いや尻でも腕でもかまわないから、その美しい部分だけをのぞかせる。男もまた同じ。めいめいが、芸術家のモデルになるに値すると思うところを見せびらかすこと」。ある部分を見せるということは、同時に、別の部分を想像させることでもある。
 おそらく仮面舞踏会の魅力もそこらあたりにあるのだろう。そこでは匿名性ということもたしかに重要だろうが、むしろ、隠すことの美しさこそが強調されているのである。仮面をつけることによって、そのひとを知る手がかりは全く失われてしまう。われわれはただ想像するしかない。このひとはいったいどんなひとなのかしら?フーリエの饗宴はそこに出発点を持っている。
 ジルベール・ラスコーは、フーリエの饗宴について、次のように注釈を加えている。「ここでは、めいめいが、どこを見せ、どこを隠すか、社会の掟など気にもかけずに決めている。ふつうはむきだしにしておく部分を衣服で覆ってもいいし、伝統的に衣服をつけている部分をむきだしにしてもいい。はずかしい器官などありはしないのだ。どの器官がどの器官より上品だということもない。隠すことと顕わにすることとの戯れは、身体の見せる相を多様化し、一瞬ごとに異なる相貌を与える。こうして衣服から解放されて戯れ、どこでも好きな部分を裸にできるおかげで、どの身体も、いちだんと情熱的な探究の対象となってゆく。」顔を隠し、性器や尻を顕わにするパーティとは、なんと魅力的なことだろう!それだけで相手を判別しなければならないとなると、われわれはさまざまなことを新たに発見することになるのではないか。ラスコーは、「身体のさまざまな器官は、そのどれもが、継起的であれ同時的であれ、いろんなふうに引き立って見えていいのであり、身体は、そうした諸々の器官の総和になるだろう」と書く。たしかにそうなのだ。われわれはつまらない社会的な慣習にとらわれすぎている。身体は、われわれを遥かに逸脱すべみなのだ。

マイナスはプラスに
ヴェルーシュカは、ひとの皮膚の無毛で剥きだしなところがいつも自分を不安にした、と語っている。ボディ・ペインティングによって、さまざまなものを身にまとい、さらに、1960年代の終わりに、自分の頭をテラスの石のようにペインティングすることを思いついてからは、ただひたすら自分自身を消すことに没頭するようになる。
 身体がその背景と完全に一体化することによって、無に帰することが肝腎なのだ。そこでは、限界に到達することではなくて、限界を越えることが目指されているのだ(S・サルデュイ)。マイナスのカードを全部集めるとプラスに転じるというトランプ・ゲームのように、彼女の存在は、消すことによって、ますます輝き出すのである。
 たしかにカモフラージュとは、語源的に言うと、単に他人から見えないようにすることではなく、それはみずからの外側に進入するための一つの方策なのである。

*フーリエ Fourier
1772- 1837 フランスの空想的社会主義者。
商人の家に生まれ、少年期から商業に携わり、その道徳的矛盾を体験、父の遺産によりヨーロッパ各地をめぐり、リヨン暴動に遭遇し、資本主義の現実を観察、独学で(ファランジュ)と名づけたユートピア的未来社会を構想した。