20150405-産経新聞-宗教人類学者・植島啓司が読む『パンセ』

産経新聞
2015.4.5 12:29
【この本と出会った】
宗教人類学者・植島啓司が読む『パンセ』パスカル著、前田陽一、由木康訳

真に読むに値する本とは

やっぱり本は短いのに限る。そもそもぼくが断章やアフォリズムが好きになったのは、17歳の頃、パスカルの『パンセ』を読んでからだったと思う。それまでドストエフスキーやフローベルなどの小説を努力して読んできたけれど、当時は本を最後まで読みとおす忍耐心があまりなかったので、すっかりパスカルのやり方が気に入ってしまったのだった。

パスカルはわずか39歳で病没するも、それまでに多彩な才能を開花させたことで知られている。キリスト教神学者として著名であったのみならず、「人間は考える葦である」の思想家であり、「ヘクトパスカル」に名を残す科学者であり、計算機の生みの親であり、ルーレットの考案者であり、確率の研究で知られる当代一の数学者でもあった。

そんなパスカルが書いた『パンセ』には心をうつ言葉がいっぱいあって、ノートが埋め尽くされるほどだった。ぼくがこれまで書いた本のなかでも、たとえば『分裂病者のダンスパーティ』は、彼の言葉が重要な発信源となっている。その一つが「天使たらんと欲するものは、動物たらねばならない」という一節。

ところが、よく考えてみると、この言葉は最初に『パンセ』を読んだときには気がついていなかった。なんとこれほど大きな影響を受けた言葉なのに、ぼくは澁澤龍彦の本に引用されるまで見落としていたのだった。まさかと思って『パンセ』を読み直してみると、しばらくして次の一節にぶつかった。

「人間は、天使でも、獣(けだもの)でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう」

これは前田陽一訳でも、松浪信三郎訳でも、津田穣訳でも、それほど大きな違いはない。おそらく澁澤龍彦が指し示したのもこの箇所だったのであろう。

だが、そうなると両者のあいだにはだいぶニュアンスの違いが出てきてしまう。多くの訳者に従えば、天使になろうとすると獣になってしまうから気をつけなければいけないという意味に受け取れるが、澁澤龍彦流の訳では、真に天使になろうと欲すれば、あえて獣に身を落とす必要があるということになる。当時は、生きることの逆説をこれほどみごとに表現したものはないと思ったものだった。

それにしても、それほど影響を受けた一節が、意訳というか自由訳に近いものだと知って、しばらく考え込んでしまった。しかし、いまはそれでよかったのではないかと思っている。『パンセ』のすばらしさは、そんなことがあってこそ、ますます際立つのではないか。いろいろな読み方をさせてくれる本こそ真に読むに値する本ではなかろうか。

最後になるが、大学に入って最初のフランス語の授業にパスカルの翻訳者・前田陽一先生が教壇に立って、まだヒヨコのようなぼくらに向かってフランス語の初歩を教えてくれたことは忘れられない思い出となっている。その時、運命というのはすべて出会いから始まると知ったのだった。(パスカル著、前田陽一、由木康訳/中公文庫・1095円+税)

『パンセ』は、フランスの哲学者、ブレーズ・パスカル(1623~62年)の死後にまとめられた遺稿集。人間性について探究した短い断章から成る。不朽の名言が数多く収録され、世界各国で長年にわたって親しまれている。

https://www.sankei.com/article/20150405-O5DYLBPOUVP6RBIAH5FDCTNSBY/