1989 現代思想 6月号(Vol.17- 7)

現代思想 六月号 第十七巻第七号 特集 <愛>と<信>の論理
青土社
1989年6月1日 発行

P269- 281
短期集中連載 宗教儀礼と民族芸術 1
バリ島のトランスダンス 1 植島啓司

1
 グレゴリー・ベイトソンとマーガレット・ミードは、一九四二年に共同で出版した『バリ人の性格』の序文の中で、大要以下のように記している。

 これまでのバリの研究者たちは、バリの文化をインドや中国やジャワのハイクラスの文化の派生体であるか又は周縁体であると見做してきた。それゆえ、そこに登場する神々をヒンドゥ教のパンテオンや『ラーマーヤナ』に登場する英雄たちや中国の古代劇の登場人物のヴァリエーションであると想定したのである。さらに、そうしたバリ文化の中にありながらアジア的伝播形態とは異なるものを総称して「ポリネシア」「インドネシア」「アニミスティック」又は「バリ・アガ」(バリ原文化の意味だが、とりわけ「バリ・ヒンドゥ」と対比されて使われる)と呼んだのである。しかしながら、われわれ(ベイトソンとミード)は、つねにそうした見解とは正反対の立場からアプローチしてきた。すなわち、われわれは次のように仮定したのである。バリにはもともと固有の文化的基盤が堅固に根を張っており、そこにさまざまな外的要素が次から次へと加わって重層化し、現在のような形になった、というものである。それゆえに、もっとも実りのあるアプローチは、この文化的基盤をまず第一に研究することである(1)。

 ベイトソンとミードは、以上のような見地から、そのフィールドをバングリ地方のバユン・ゲデ村に設定し、一九三六年三月より一九三八年三月までの二年間と、さらに一九三九年の二月から三月にかけての六週間をかけて、幅広く人類学的な調査を行なったのである。バユン・ゲデはキンタマーニの近くにあって、以前から文化的侵入の影響が比較的少ない場所であった。
 われわれは、一九八五年から一九八九年に至る六度にわたるバリ調査を行ない、ベイトソンとミードの見解を中心に検討しつつ、バリ島東部地域を中心にサンギャン、バロン・ダンス、チャロナランの集中的な調査を行なった。それによって、その現在的形態を詳細に記録するとともに、重層化したバリ文化の特質をいくつか指摘しようと試みてきたのである。さて、われわれの議論はとりあえず以下のように進行することになるだろう。
 (一)まず、これまでバリのバロン・ダンス、チャロナランについてはいくつかのすぐれた報告があることが知られている。とりわけ、ベイトソンとミードの『バリ人の性格』(一九四二)をはじめ、W・シュピース、B・デ・ズーテ『バリの舞踊とドラマ』(一九三八)、J・ベロ『バリのトランス』(一九六〇)、M・コヴァルビアス『アイランド・オブ・バリ』(一九三八)などは、一九三〇年代のバロン・ダンスおよびチャロナランがどういうものであったかをかなり正確に伝えており、ここで十分に再検討するに値すると思われる(2)。
 そして、約半世紀を経た現在、それがどのように変化して(あるいは、変化せずに)存続しているかを報告することは意味があることだろう。この論文では、比較的プリミティブな形態を維持しているとおもわれるバングリのスラプカンという村で行なわれるバロン・ダンスを主な題材としつつ、それを行ないたいと思う。
 (二)さらに、われわれが明らかにしようと思うのは、バロン・ダンス、チャロナランがその一部であるような一つの儀礼システムである。つまり、これまでほとんど注目されてこなかったサンギャンという悪魔祓いの踊りが、実はかなり普遍的に見いだされるバリ固有のトランス・ダンスであって、それはバロン・ダンス、チャロナランとともにバリ島の宗教儀礼の中で重要な役割を果たしているということである。われわれは、そのことを明らかにするため、バリ島の東部地域を中心にして、かなり広範囲なフィールド調査とインタビューを積み重ねてきた。それはのちにマッピングされて示されることになろう。
 (三)ベイトソンとミードの研究は、初めて行なわれた写真分析による人類学という側面をもっている。宗教をはじめとするさまざまな文化的特質が、言葉を通してはほとんど伝達されないバリのような社会においては、今後、ビデオ、スライド、写真、オーディオ装置などによる調査が重要な役割を果たすようになろう。これまで、それらに対する明確な方法的な規範が示されることが少なかったため、あくまでも研究の補助的な役割しか果たしてこなかった。われわれは、K・G・ハイダー『エスノグラフィック・フィルム』(一九七六)や、J・ルビー「エスノグラフィック・フィルムはフィルミック・エスノグラフィーか」(一九七五)、「鏡に写されたイメージ」(一九七七)、J・R・ロールワーゲン編『人類学的フィルムメーキング』(一九八八)などを参照しつつ(3)、ベイトソンとミードの『バリ人の性格』やG・クラウス『バリ一九一二』(一九二〇)、さらにベイトソンが撮影したバリの映像資料などを再検討してみたい(4)。
 とりあえず本論では、(一)から論じ始めたいと思う。ここで取り上げる調査記録にはすべてビデオ、スライド、写真、オーディオ・テープなどの資料が伴われている。まずは文献資料から入ることになるが、適宜それらの資料にも言及することになるだろう(5)。

2
 現在、バトゥブランやウブドでほぼ毎日のように見ることができるバロン・ダンスは、実は比較的最近に成立したストーリーをもとに演じられている。と聞くと、意外な印象を受ける人が多いかもしれない。バリでももっとも伝統的なダンスとされ、いかにもバリそのものと思われているものが、以前にはまったく違ったものだったとなれば、驚かない人はいないだろう。つまり、現在のそれは一九三〇年代のW・シュピース、B・デ・ズーテ、J・ベロ、M・コヴァルビアスらの報告の中にはまったく見出せない筋のもとで進行しているのである。もともとのバロン・ダンスとは、善獣バロンと魔女ランダがこの世を二分して戦うという、かなりシンプルな踊りだったと思われる。さらに、シュピースとデ・ズーテは「もっとも単純な形態におけるバロン・ダンスにはストーリーなど無かった」と述べ、「後にいかに複雑なストーリーをもつようになったとしても、基本的にはバロンのソロ・ダンスがすべての導入部となる」と記している。もちろん、現在では推測するしかないが、トゥルニャンのバロン・ブルトゥクなどの例を見れば、そうした可能性も一概に否定することはできないだろう(6)。
 われわれが知ることができるのは、一九三〇年代に大きな変化があって、現在もっともよく見られる形式のバロン・ダンスが成立したということである。そのあたりの事情は、J・ベロの『バリのトランス』の中のギアニャール地域についての記述に詳しい。しかし、それ以前のバロン・ダンスがいかなるものであったか、また、それ以後のバロン・ダンスがいかに行なわれているか、を知ることはなかなか難しい。実証的な研究報告がきわめて少ないのである(7)。われわれは、とりあえず文献資料とこれまでに行なった六度のフィールド・ワークを並行させて検討し、バロン・ダンスの全貌を摑むことから始めたいと思う。とりあえず、以下J・ベロが実際に観察した一九三〇年代のバロン・ダンスの記述を要約するとともに、おそらく同時にそれを観察したと思われるW・シュピースとデ・ズーテの見解をも取り上げてみたいと思う。
 さて、まずJ・ベロの記述によると、その当時までのバロン・ダンスはいまだに統合されてなくて、地域ごとにそれぞれ異なるバロン・ダンスが執り行なわれていたようである。彼女は一九三一年からバリのバロン・ダンスの調査にギアニャール地域のデンジャランに入り、そこで行なわれるバロン・ダンスを記録し続けたが、もっとも大きな変化は一九三八年のチャロナラン劇の導入だろうと述べている(8)。
 つまり、それまでのバロン・ダンスは、バロンの踊りによって始められ、それにジョーク(Djaoek)として知られる仮面をつけた人々の踊りが続き、ランダの登場に至る。バロンとランダとの間の争いがしばしあってから、ようやくクリス・ダンサーたちは、正式のクリス・ダンスを踊ることもあったし踊らないこともあったが、いずれにせよランダによって深いトランスに陥れられて、ヌレ(Ngoerek)と呼ばれる状態、すなわち、ランダに向けるためにもっていたナイフ(クリス)で自分たちを刺すという事態を招いてしまうのである。以上がバロン・ダンスの基本的な筋書きであるが、J・ベロによれば、一九三八年になって、バロンの踊りとクリス・ダンスの間にチャロナランが挟み込まれることになったというのである。
 チャロナランはバロン・ダンスとはまったく別のものである。つまり、それは強力な魔術によって疫病を流行らせ、土地を荒廃させて、人々を破滅に追い込む魔女チャロナランの物語である。いわゆるチャロナラン劇は、魔女の弟子たちにあたる正装した幼い少女たちの登場から始まる。シシアス(Sisias)と呼ばれる彼女らに続いて老女の風貌をした(男が変装しているのであるが)魔女が現われ出る。それから、しばしコメディ・シーンが続き、レヤックという悪霊の姿をとった魔女の弟子たちによる攻勢がさまざまな踊りによって示される。いよいよ大臣が登場して魔女を攻撃すると、彼女は一転してランダに姿を変えるのである。それに対して、大臣もみずからバロンに変化してランダと戦う。だいたいがランダ優勢のうちに踊りが進むと、クリス・ダンサーたちが登場することになる。バロンとランダの戦いは、いつの場合も、けっして決着がつくことはない。たいていはクリス・ダンサーたちの激しいトランスによって場は興奮の極に達し、大混乱のうちに幕切れを迎えることになる(9)。
 いずれにしても、バロン・ダンスとチャロナランとは不可分の関係にあるが、両者がいかなる関係のもとで結びついているかは、それぞれの場所によって異なることであろう。J・ベロは、バロン・ダンスとチャロナランとはまったく異なる二つの劇だと強調しているが、おそらく両者を切り離して考えることはかなり困難なことに思われる。むしろ、バロン・ダンスのもっともポピュラーで人気のあるテーマがチャロナランであると考えるほうが妥当な感じがするのである。バロン・ダンスとチャロナランをまったく別の二つの劇とみるよりも、どちらかといえば相互に並行関係にある劇と見なしたほうが自然なのではなかろうか。つまり、現在もっともポピュラーなバロン・ダンス=チャロナランは、もともと互いに異質なものの結合ではなく、類似したものの相互投影ということである。
 さらに、敢えて議論を進めようと思うならば、かつて「原バロン・ダンス」と呼ばれるようなものがあったと仮定することもできよう。それがそれぞれ独自の物語を発展させて多様な形態をとるとともに、よりポピュラーな物語がさまざまな地域に浸透し、ローカルなバロン・ダンスを吸収してきたと考えることもできるであろう。その中でもっとも人気が高かったのがバロン・ダンス=チャロナランというのである。もちろん、それは単なる仮説に過ぎないが、のちに一九三〇年代から現在に至るさまざまなバロン・ダンスを比較対照することによって、いくらかの興味深い指摘を行なうことができるであろう。
 ともかく、J・ベロによる調査がなされたデンジャランは、現在バリで広く見い出されるバロン・ダンスの分布のほぼ中心地にあたるのである。いかなる点からしても、そこはもっとも変化を蒙りやすいところであり、そうしたことを考慮にいれるならば、やはり一九三〇年代にバロン・ダンスとチャロナランが一つになり始めたことはおそらく間違いないことのように思われる。

3
 さて、W・シュピースとB・デ・ズーテによるデンジャランのバロン・ダンスの記述についても少し触れておこう(10)。彼等はその主要な展開を以下のような八つのシーンに要約している。すなわち、(一)まず、バロンの登場であるが、輝くような金の羽毛飾りを身にまとい、顎をこきざみに震わせて、跳ねるような仕草を時折見せながら、黒と金色の二つの大きな日傘の間にためらいつつ現れる。バロン(この場合、エルランガの大臣が扮していることになっている)は何人かの従者を従えており、彼等と戯れるような仕草を繰り返してから、ともに寺院の内側へと入る。(二)魔女デヴィ・クリシュナの従者であるニ・カローンが、四人の仲間たち(ルンダ、ルンティ、ガンディ、グヤン)を連れて、階段の一番上に並んで登場する。彼等は今まさに国中に猛攻撃を加え破壊の限りを尽くしてきたところだった。彼等のエレガントなダンスが繰り広げられる。(三)突然、デヴィ・クリシュナが階段の一番上の日傘の間に現れる。彼女の役柄は年老いたプマンク(聖職者)によって演じられる。デヴィ・クリシュナは、ゆっくりと弟子たちのもとへ行き、その日の首尾について尋ねる。ひとしきり言葉のやりとりがあった後、全員が一時退場する。(四)音楽が変化する。長老格の男が二人現れて、国を破滅から救うにはどうしたらいいかをウィッチ・ドクターに相談しようと語り合う。バリアンの登場である。彼女は供物をかかげ、トランスに入るための香などを持っている。そして、地面に座り込み、香の煙のほうに身を屈めながら、トランスに入るときの様子を再現する。他方、恐ろしい悪霊レヤックがそこに忍び込んでくる。それは仮面を被ったニ・カローンが演じている。(五)快いメロディが新たなる登場人物の到来を告げる。エルランガの王ジャヤスンガラである。彼は自分の国の荒廃を自ら確かめようとやってきたのである。ニ・カローンは王の前に引き出され、そこに膝まづく。王は二・カローンに警告し、彼女はそれに抗弁する。王は激しいダンスを繰り返し、すぐに向きを変えて退場する。(六)最初にバロンに扮していた大臣(patih)が登場する。このパートはいくつかのコミカルなシーンからなっている。しかし後半になってムードが一変し、場は大きな緊張に包まれる。群衆の中から二人三人と走り出てくる者があり、彼等の数は一〇名ほどにもなる。彼等は大臣に一緒に魔女をやっつけに行きたいと申し出る。(七)デヴィ・クリシュナが呼び出される。大臣等は彼女をひどい目にあわせ、群衆は歓喜の声をあげる。しかし、怒りに燃えながら、彼女はランダに変身する。いよいよクライマックスである。ランダは激しいガムランの演奏のもとで奇声を発し、猛々しいダンスを踊りつつ、大臣を逆にやり込めてしまう。彼はその場をいったん離れ、ふたたびバロンとして登場することになる。(八)いよいよ新しい戦いの開始である。バロンとランダはともに踊りながら相手を威嚇する。すでにトランスに入っている者もいる。ランダはまったくひるむ様子も見せず、クリス・ダンサーたちにも魔術をかける。彼等はそれによって手にもったクリスでみずからの身体を刺そうとするのである。ランダは退場し、そこには深いトランスに陥ったダンサーたちが残される。最後の段階である。プマンクは儀式に則って聖水を掛け、ダンサーたちをトランスから覚めさせるとともに、人々に聖化の儀式を執り行なうのである。
 このシュピースとデ・ズーテの記載を詳細に検討すれば、そこには二つのテーマのみごとな混り合いが見てとれるであろう。もちろん、ここで一つになったテーマは、その後さらに複雑な変化を遂げ、現在のバトゥブランでは、さらに明確にヒンドゥ化して『マハーバーラタ』のエピソードと結びついてしまっている。一見したところ、もっとも変化することが少ないと思われる儀式のシナリオが、わずか五〇年から六〇年の間に、これほど大きな変化を蒙ってしまっているとは、なかなか予想できないことではなかろうか。あらゆる伝統がそれについての言葉による記憶をほとんど拒絶しているバリのような社会では、われわれは、それを知るのに、宗教儀礼、音楽、ダンス、歌、口誦伝承、絵画、デコレーション、工芸品、遊び、身体動作などを通じて分析を始めるしかないのである。ビデオやオーディオ・テープなどによる研究がこれまで以上に必要とされるようになると思われるのは、そうした理由によるのである。
 さて、われわれは、ここでそのもっとも新しい形態に言及する前に、現在フィールドとしているバングリ地域のスラプカンにおけるバロン・ダンスの調査報告を取り上げてみたいと思う。そこは地理的条件もあって(交通事情がかなり悪い)、これまで外国人が立ち入ったことがほとんど無く、バロン・ダンスのもっともプリミティブな形態が残されている可能性があるからである。それについての考察を加えた後に、われわれは、ふたたび大きなテーマに戻ることになるだろう。

4
 われわれは、一九八五年から一九八九年に至るまで六度のバリ調査を行なってきた。まず、バリ暦で二一〇日ごとにめぐってくるガルンガンの祭りを観察するため、ギアニャール地域のペタという小さな村に入り、そこに隣接するバングリ地域のスラプカンへと調査の手を伸ばした。というのも、ペタにはバロン・プロセッションはあるもののバロン・ダンスは行なわれていなかったからである。それに対して、スラプカンでは、ガルンガンごとに(正確には、ガルンガンの祭り一〇日目のクニンガンの日に、しかも、毎年ではなく二年に一度)、かなりプリミティブとおもわれるバロン・ダンスが実施されていた。それはウニウニガン・ダンスと呼ばれていた。現在、ギアニャールのバトゥブラン、チュルク、スカワティ、さらに、ウブド、プリアタンなどでは、だれでもある程度ストーリーの整った「芸術的」なバロン・ダンスを見ることができる。だが、しだいにオーソドックスな形態にまとめ上げられつつあるそれらのダンスからは、当然のことながら、それ本来がもっていた野生の興奮状態は得られないのである。ともかく、以下に、スラプカンのウニウニガン・ダンスの詳細な観察記録を提示し、さらにプマンク(聖職者)とのインタビューなどを通じて得たウニウニガン・ダンスの背景にある物語を復元し、その特徴についていくつかのコメントを加えてみたいと思う。

一九八八年七月一六日 バングリのスラプカン
 スラプカンのウニウニガンダンスは、バリ暦(二一〇日で一年と数える)でいう隔年のガルンガンごとに行なわれるため、なかなか見る機会に恵まれないが、一九八五年の夏以来これまでに三度観察し記録することができた。それにはつねに周辺の四つのバンジャールが参加することになっている。スラプカン(Sulat Pekan)、スラトゥンガ(Selat Tengah)、スラカジャカウ(Selat Kajakauh)、スラニュアン(Selat Nyuhan)の四つがそれである。それぞれ規模はそれほど大きくなく、六〇戸から一〇〇戸前後からなるバンジャールである。ウニウニガン・ダンスのプマンクおよび演者はすべてスラプカンから出ることになっているのだが、とりあえず、四つのバンジャールの地理的関係を知るために、その地域の見取り図を以下に示しておきたい。
 さて、ウニウニガン・ダンスは、ほとんどの祭儀がそうであるように、通常は夜に行なわれるのだが、この日は午後四時頃にスタートすることになった。すでに昼前から人々は集まりだし、プラ(寺院)(11)に参拝したり、供え物を運んだりしている。午後二時にバロン・プロセッションが開始される。ガムランを従えて村中を清めてまわる儀式であるが、その行列の通る範囲が村の境界線を示すものと言われている。陽射しは強く、ガムランはいつものように低い反復音を奏でる。プラの内部には女性たちが供え物を運ぶ長い行列が続いている。

(図)

 三時を過ぎてバロン・プロセッションも一段落し、ガムランも寺院プラ・ムランティン(Pura Melanting)の一隅に場所を占めて、ふたたび演奏を開始する。あいかわらず人々を不安にさせるうような基調低音がなり響き、それに微妙なパーカッションがしばしばつけ加えられて、何かが訪れるのを待つような雰囲気が漂いだす。

(図)

 つねにウニウニガン・ダンスが行なわれるのは、寺院のミドル・ヤードにあたるジャバ・トゥンガ(Jaba tengah)に於いてである。そこはだいたい25×25ぐらいの広さで、寺院の内陣・外陣にあたるジェロアン(Jeroan)と外部であるジャバ・シシ(Jaba sisi)との中間にあたる場所である。そこに集まった人々は、近隣の村の人々も含めて、およそ五、六百名ほどであろうか。ジャバ・トゥンガは、何重にも折りかさなるようにしてそこを取り囲んだ人々で溢れかえるが、とりわけ若い男女の姿が目立つようだ。
 四時一〇分、まずラクササが登場する。彼女は魔女ランダの美しい娘ラナ・メンガリとしばしば同一視される。彼女は白い布(おそらく不可視の象徴であろう)を頭上にかざしながら踊る。しばらく奇声を発しながら喋り続けると、すぐにルンダとルンディという二人の従者が現れ、ラクササとからみながら何か悪いことを企むしぐさをする。劇の登場人物はすべて仮面をつけている。三人はともかくあらゆる手段を使って国中を荒廃させようとしているようだ。すでにその試みは開始されている。彼等は、ひとしきり話した後で、退場する。
 四時二五分、二人の道化のような男たちが現れて、誰かがこの国(エルランガ)に災難をもたらしていると語り合う。それから、プマンクが登場して、人々に聖水をかけてまわる。二人の男たちが、敵の力が異常い強いことを知って、バロンを呼んだのである。場は一斉に緊張する。いよいよバロンの登場である。ガムランの低い反復音は、これから訪れようとしているものが果たして好ましいものか邪悪なものか、まったく不明の雰囲気をつくりだす。W・シュピースは「ガムランとバロンの間には強い対応関係が見いだされる」と述べている。まさにその言葉のとおり、バロンガ、ついに、場合によってはいちじるしい恐怖の対象ともなりうるような姿を現す。バロンは激しく口を鳴らしながら、あたかも狂ったかのように場内を歩きまわる。二人の人間がその内側に入っていると知ってはいるものの、その様子はかなりおそろしい。人々はその一挙手一投足注意を傾ける。バロンの動きはすばやく、見物する人々の間に突然割って入ったりするが、ぎっしりと詰まった人波も、まるでそれを予期したかのようにみごとに二つに割れる。しばらくして、バロンはガムランの後方で休息する。
 四時四五分、ルンダとルンディが、何かに祈るように語りかける。プマンクは、香をたき、ココナッツや黒いチキンなどをささげながら、ガムランとは正反対の側で祈りを開始する。ついにランダが姿を現し、プマンクの前で祝福を受けるようにたたずむ。ランダは頭に白い布を掛けて、二人の従者に支えられるようにしている。しばらくは穏やかな時間が経過しそうに思えたが、祈りの最中に一人の男が突然トランスに入り、ランダめがけて襲いかかった。しばし乱闘となり、ランダの仮面が壊れるなどして、一時場は大混乱に陥る。トランスに入った男は数人の手によって取り押さえられ、ランダの修復のためにダンスは中断されることになる。その間に、バロンガ再登場し場内を一周するが、どうもそれはストーリーとは無関係のようだ。
 五時一五分、ランダの準備が整う。次第にランダの全身に力がみなぎってくるように見える。いよいよ、ランダは奇声を発し始め、あたかも長い爪を震わせるようにして喋り、さらに挑発するかのようなしぐさで場内を歩き始める。ランダの一人舞台といった感じである。人々は畏怖と憎悪の表情を浮かべてそれを見つめる。
 さて、いよいよクライマックスである。バロンが動き始め、場の中央近くでランダとの対決が開始される。ランダはバロンに対しても挑発を続け、一方バロンは口を激しくならしながら、身体全体を震わせるようにしてランダに対抗する。ガムランが高い金属音を響かせ、異常な興奮状態が広がる。突然、バロンの前脚の役の男がトランスに入ってしまう。ランダはすかさずバロンを押さえ込むようにし、バロンは身体を沈み込ませてしまう。ランダの圧倒的優勢といった局面である。ここで、新たにトランスにはいる人々が数名現れ、彼等を取り押さえようとする人々が入り乱れて、その場は大混乱の様相を呈する。すでにバロンまで完全なトランス状態に入る。
 混乱がしばらく続き、人々は行き場をなくして右往左往する。トランスに入った人々はおよそ六、七名で、彼等は皆それぞれ三、四人がかりで押さえ込まれている。ようやく騒然とした場が収まってくると、今度はトランスに入った人々にクリスが手渡され、解放される。普通のバロン・ダンスで言う「クリス・ダンス」に当る箇所であろうが、ほとんど踊りらしい踊りは見られず、トランスに入った人々は、ひたすら、プマンクによって頭上にかざされた小さな鶏を奪って生きたまま食いちぎり、ランダのいる方向に向けて突進を繰り返すのである。彼等のうちの一人は、犠牲の鶏のせか身体中を血だらけにしている。
 ガムランはその間一貫して同じリズムを刻み続けている。ガムランの金属音は神経系統にコネクトしてポテンシャルを高め、トランスを喚起する。音楽がなければトランスは起こりえないとも言えるだろう。音楽は、時により弱まり、時により強く響かされて、微妙な一種の均衡状態を導き出すのである。それは安定した状態というよりも、つねに流動した状態であり、変化し続けていくわけだが、その変化が繰り返されながら回帰してくる様相がある程度保証されているといった意味で均衡が保たれているわけである。
 トランスに入った人々に対しては、プマンクによって二種類のものがかざされる。すなわち、生きた鶏と聖水である。前者は彼等を元気づけてランダと対抗できるようにするために与えられ、後者は彼等をトランスから覚醒させるために使われる。すでに一〇羽以上の鶏を食いちぎり飲み込んでしまった男もいるが、時間が経つにつれて一人二人と聖水を与えられるものが増え、彼等は人々に抱えられるようにして介抱された後、ガムランの近くにぐったりとうずくまってしまうのである。すでに人々の輪は直径七メートルほどに縮まり、最後の一人も次第にパワーを失ってきて、いよいよエンディングを迎えることになる。
 すでに六時を過ぎると、周囲はだいぶ暗くなってくる。ガムランの音がやんだのは六時三分であった。ついにウニウニガン・ダンスは終わりを迎えたのである。人々は静かに寺院内に入り、最後のスンバヤン(聖化の儀式)に移る。まず、バロンとトランスに入った人々が一番前でプマンクによって聖水をかけられて聖化される。ガムランもそちらに場所を移してふたたび演奏を始める。六時二五分、トランスから覚めた人々が退出する。それから、村人たちに対する長いスンバヤンが開始されることになる。
 さて、以上がウニウニガン・ダンスの概略であるが、われわれはその翌日にプマンクたちとのインタビューを行ない、いくつかの疑問点について尋ねてみた。その時のインタビューは主にウニウニガン・ダンスの背景となっている物語の復元に焦点を置かれた。それについて触れる前に、とりあえずウニウニガン・ダンスをめぐる問題点を少し整理してみよう。

5
 スラプカンで行なわれているバロン・ダンス(ウニウニガン・ダンス)の主要な特徴の一つは、なんと言っても様式化された踊りがほとんど見られないということである。そして、狂言回しの存在によってかすかに物語の展開を読み取ることは可能であるが、ほとんどが狂ったような動き、奇声、パントマイム、歌、激しい身体表現によって構成されているということである。このことはダンスの成立の根源ともかかわってくるかもしれない。それゆえに、登場人物それぞれの役割さえ理解していれば、物語の展開はそれほど重要な意味をもたないとも言えるのである。つまり、たとえば物語の展開を縦軸、登場人物の自己表現を横軸と考えると、後者の比重が著しく大きいということである。このことは後に詳細に検討されることになるだろう。
 それから、すべての登場人物たちに別世界の気配が感じとられるという点も強調すべきことであろう。もともとバロン・ダンスには悪魔祓いの要素が色濃く反映しているが、かといってランダが邪悪な力を表わすとは断定できないのである。ランダの周囲には秘密がはりめぐらされており、畏怖と尊敬の念が捧げられている。つねにランダを演ずるのがとりわけ呪力が強いドゥクン(シャーマンとかウィッチ・ドクターと訳される一種の呪術師)やプマンクであることからも、そのことは知れるだろう。また、バロンにしても、善なる怪獣とはいっても、どこかに邪悪なものが隠されており、けっして正義の味方とは言いきれないのである。バロンが近づいてきたときの人々の表情は、例外なく恐怖に震えているのだ。つまり、バロンの背景には、不定型な力の概念があって、それがいかに働くかは状況次第といったところがある。もちろん、それはランダの場合でも同じで、それゆえにその力を単に正義の力、邪悪な力と定義するのでは具合が悪いのだ。むしろ、ランダについて言うならば「道を踏みはずした力」とでも規定するべきだと思われる。バロンもランダもともにアンビギュアスな存在であって、おそらく起源からすれば近親関係にあるモンスターだと言えるであろう(12)。
 さらに、自然発生的なトランスの問題がある。現在バリで広く行なわれているクリス・ダンスに於いては、魔女ランダによってマジックにかけられた人々が、ランダに向けるはずだったクリスで自分たちの胸を突いてしまうという場面が好んで取り上げられるようである。もちろん、それは一九三〇年代以前からよく見られたシーンではあったが、本来はウニウニガン・ダンスに見られるように、自然発生的なトランス・シーンがそのあまりにも劇的な場面の根底にあったのではなかろうか。そして、それはかつてはバロン・ダンス全体の中でもきわめて大きな部分を占めていたとも考えられるのである。スラプカンの場合でも、ウニウニガン・ダンスのほぼ半分以上がトランスの場面であって、それ以前のやりとりはすべてトランスに対する導入部分とも考えられるほどなのである。ある一定の決められた時間内で、しかも舞台で演じられるということになれば、トランス・シーンは多少性格を変えざるをえなくなり、どちらかと言えばシンボリックな表現に取って代わられることになるだろう。それが現在のクリス・ダンスと考えられないだろうか(13)。
 また、ウニウニガン・ダンスがいったい何のために行なわれるかという点も、さらに考え直さなければならない問題だろう。バロン・ダンスやチャロナランは、現在ではほぼ決まった日に決まった場所で行なわれているが、ウニウニガン・ダンスについて言うならば、どうもかつては不定期に実施されていたらしいのである。それでは、いったいいついかなる場合に行なわれていたのだろうか。
 われわれは、以上の他にも多くの問題点を列挙することができるが、とりあえずウニウニガン・ダンスには他のバロン・ダンスと比較するとかなり興味深い側面がひそんでいるということは確認しておきたいと思う。次回は、プマンクたちとのインタビューをもとに、ウニウニガン・ダンスの背景となる物語を復元し、それをチャロナランとの関係で論じたいと思っている。さらに、さまざまなバロン・ダンスを、時間・空間をこえて比較対照し、その儀礼シナリオを構造分析して示したいと考えている。そうした過程を経ることによって、バロン・ダンスおよびチャロナランの全体像がようやく浮かび上がってくるのである。


(1) Bateson, G. & Mead, M., Balinese Character: A Photographic Analysis, The New York Academy of Sciences, 1942, p. xiii.
(2) De Zoete, B. & Spies, W., Dance and Drama in Bali, Oxford University Press, 1973, originally published by Faber and Faber, 1938.
Belo, J., Trance in Bali, Columbia University Press, 1960.
Covarrubias, M., Island of Bali, Oxford University Press, 1977, originally published by Alfred Knopf, 1937.
(3) Heider, K. G., Ethnographic Film, University of Texas Press, 1976.
Ruby, J., “Is Ethnographic Film a Filmic Ethnography ?” Studies in the Anthropology of Visual Communication, 2 (2): 104-111. Ruby, J., “The Image Mirrored: Reflexivity and the Documentary Film,” Journal of the University Film Association, 29 (1) : 3-11
Rollwagen, J. R., (ed), Anthropological Filmmaking, Harwood Academy Publishers, 1988.
(4) Krause, G., Bali 1912, January Books, 1988, originally published by Folkwang- Verlag, 1920.
Bateson, G & Mead, M., Trance and Dance in Bali, Distributed by NYU, 1952. なお、宮坂敬造「写真による実験的民族誌」『現代思想』第12巻第12号、一九八四年、参照のこと。
(5) 資料は主に石原敏孝氏および関西大学文学部植島研究室の学生らの協力による。また、ビデオは伊藤俊治氏に収録していただいた。
(6)De Zoete, B. & Spies, W., op. cit., P. 99. トゥルニャンのバロン・ブルトゥクは今後の重要な研究課題となろう。
(7)一九三〇年代以降のバリ研究で多少とも検討の余地のあるものは数少ない。その中でも、いくつか列挙するとなると、Geertz, C., The Interpretation of Cultures, Basic Books, 1973. Boon, J. A., The Anthropological Roance of Bali 1597- 1972, Cambridge University Press, 1977. バリのダンスということになれば状況はさらに悪くなり、I Made Bandem & Eugene de Boer, F., Kaja and Kelod: Balinese Dance in Transition, Oxford University Press, 1981. あたりを参考にするしかないだろう。日本人の業績については、また別に論じたい。
(8) Belo, J., op. cit., p. 97 以下参照。このあたりの経緯については、中村雄二郎『魔女ランダ考』岩波書店、一九八三年、に詳しい。
(9) Ibid., pp. 97- 98.
(10) De Zoete, B. & Spies, W., op. cit., pp. 127- 133.
(11) ここでプラを寺院としたのは単なる慣用で、実際には神社とするのが正しいと思われる。プマンクにしても聖職者としたが、よく僧侶という言葉が用いられる。これも本来は祭司か神官とするべきだろう。
(12) De Zoete, B. & Spies, W., op. cit., p. 90, 95, 97 など参照。だいたい仮面をつけた登場人物は超自然的な存在を示唆することが多い。このことはまた別に論じたいと思う。
(13) Bateson, G. & Mead, M., op. cit., pp. 164- 171. にも写真が収録されているが、この問題はバリの宗教儀礼を解読するにあたって避けては通れないと思われる。

(うえしま けいじ・ 宗教学)