1989 現代思想 8月号(Vol.17- 9)

現代思想 八月号 第十七巻第九号 特集= 闘うデリダ 言葉のポリティクス
青土社
1989年8月1日 発行

P256- 264
短期集中連載 宗教儀礼と民族芸術 3
バリ島のトランスダンス 3 植島啓司

1
クリフォード・ギアツは「バリにおける人間・時間・行為」(一九六六)という論文の中で、バリの人々にとっては日常生活がそのまま宗教儀礼だという点を強調して、次のように述べている。

日常の人間相互関係はたいへん儀礼的で、宗教活動は非常に日常的なので、一方がどこから始まり、他方がどこで終わるかを知ることは困難なくらいである。日常生活と宗教生活はともに、バリの最も著名な文化の属性である芸術的傾向の表われなのである。念入りな寺院の祭儀のときの華麗な行列、壮大な音楽劇、曲芸じみた踊り、おおげさな影絵芝居、遠回しの言い方、謝罪の身振りなどはすべて同種のものである。礼儀作法は一種の舞踊であり、舞踊は一種の儀礼であり、儀礼における聖化の儀式はそのまま一種の礼儀作法なのである。

 たしかにその通りで、バリの人々の生活は、そのほとんどが宗教(とりわけヒンドゥ教)と不可分の形で進行している。それほど大きくない島(面積は五六二一平方キロで、東京都の約二・六倍)の中に、五千近くの大きな寺院が点在しているということからも、また、一年間で数千にのぼる祭りが見いだされることからも、そのことは見当がつくだろう。そのおおよその状況についてはどこの地域でも大差はないが、それでも個別に眺めれば多少の相違が見い出されもするのである。
 たとえば、彼らの宗教儀礼にみられるトランスについて調べてみると、かなり明確な地域性が読み取れるのである。バリ島中央部のバドゥン地域では、バリアンとかサドゥグなどさまざまな宗教的=呪術的職能者が混在しており、彼らがフォーマルな集団的巫儀を執り行なって、みずから神々の媒介をなすことが知られているが、それもクシマンからせせらぎのような川ひとつ越えてギアニャール地域に入るとほとんど見られなくなってしまう。
 そこから先の地域一帯では、これまで論じてきたように、バロン・ダンスやチャロナランの儀礼と舞踊によって、神々との交流がはかられるようになる。つまり、それぞれの寺院と密接に結びついた仮面舞踊によって、宗教的=呪術的職能者によるトランスのプロセスが代理されてしまうのである。このことは非常に興味深いことである。
 また、それがさらに東に行ってクルンクン、バングリに入ると、今度はそのバロン・ダンスでさえもポピュラーなものではなくなってしまう。このことは、西の場合でも同様で、クランビタン周辺にはみごとなバロン・ダンスが見られるが、そこを越えてしまうとふたたびほとんど見られなくなってしまうのである。
 そうなると、バリにおけるもっとも代表的な舞踊であり演劇である(と一般的に信じられている)バロン・ダンスは、実はきわめて限られた地域で行なわれているものだということが次第にわかってくる。すなわち、われわれによく知られているバロン・ダンスが歴史的に現在の形を取るようになったのは、わずかにここ五十年ぐらいのことであるということがすでにわかっているが、それに加えて、地理的にもギアニャールを中心とした地域においてのみとりわけ高度に発展したものであるという事実が、浮かび上がってくるのである。
 さて、それでは「近年流行し始めた」バロン・ダンスが登場する基盤となったのはいったいどういうものなのかということが次に問題になってくる。われわれの調査は、そのことを明らかにするため、バリ島東部のカランがセム地域に向かうわけだが、その前に、時間軸を巻き戻して、一九三〇年代以前のバロン・ダンス、チャロナランがいかなるものであったかを、もう一度詳しく検討したいと思う。そして、現在知られうるかぎり時間軸と空間軸とを拡大し、バリ島の宗教体系をトランスダンスの観点から明らかにしたいと考えている。

2
 さて、これまでさまざまなバロン・ダンスおよびチャロナランの筋書きを検討してきたが、以下それらの類似点および相違点をまとめてみたいと思う。
 まず、基本的にもっとも大きな変化が起きたと言われる一九三六年を境にして見ると、それ以前のバロン・ダンスはきわめて単純なもので、本稿「バリ島のトランスダンス1」でも述べたように、(1)バロンの登場によって始められ、(2)ジョーク(Djaock)として知られる仮面をつけた人々が続き、(3)ランダの登場に至る。(4)バロンとランダのコズミックな戦いがあって、(5)クリスダンサー(ダラタン)がランダをやっつけようと現れ出るが、(6)ランダの魔力で自分たちの身体を刺してしまう。(7)聖化の儀式、といった展開で行なわれたと思われる。その背景となるストーリーはそれほど明確なものではなく、疫病、天変地異、社会不安をひきおこす目に見えない(つまり、超自然的な領域の)力を一方でランダとして形象化するとともに、それに対抗する超自然的な力をバロンに代表させて人々の側につけ、二つの力のせめぎあいによる劇を演じることによって、いわゆる「悪魔祓い」の儀礼を成就するというのが、主要な眼目であったと思われる。
 それが一九三八年に入ると、J・ベロらも述べる通り、チャロナラン劇との融合がはかられ、次第に物語は複雑になっていく。主要な違いは、ランダの性格づけの問題を巡るものであって、歴史的に実在したエルランガ王にまつわるチャロナラン伝説がランダに二重写しにされたのである。つまり、疫病などをもたらす超自然的な力のシンボルであるランダがそこで人格化され、それとともに、その人格の背景をなす物語がバロン・ダンスに一挙に流れ込んだわけである。
 もちろんそれまでにもそうした試みがまったくなかったわけではない。ランダはデウィ・クリシュナなどのヒンドゥ的な人格神ともすでに同一視されており、地域的にさまざまな形をとって物語化されていたと推測される。ギアニャールのデンジャランやパグタンにチャロナランが導入されたのが一九三六年前後というのはほぼ間違いないが、それ以前にチャロナラン的な人物がまったく存在していなかったかというと疑問で、人々の間では何らかの合意事項があったのではなかろうか。
 いずれにせよ、チャロナラン劇の導入で魔女ランダをめぐるストーリーはきわめて明快な展開を示すようになり、魔女の弟子たちにあたるシシアスが登場するようになるとともに、エルランガの大臣がバロンに変身するというモチーフが挟み込まれるようになる。「バリの人々」対「疫病などの凶事」という図式が、バロン対ランダという超自然的な領域に移され、さらに、エルランガの大臣対魔女チャロナランという物語とも三重写しになるというわけなのである。それとともに、バロン・ダンスに出産や卜占や埋葬などのシーンが挟み込まれ、さらに演劇化が進行するという事態も招くことになるのである。
 その傾向は、現在のクランビタンやバトゥブランのバロン・ダンスでは一層極端な形をとって現われることになる。たとえば、クランビタンでは、名前こそエルランガの大臣パティ・パンドゥン・マグナと魔女ワル・ナタ・リング・ディラというように異なっているものの、ストーリーは正確にチャロナラン伝説をなぞっており、さらに舞踊は様式化して示されることになる。そうなると技法上は一層洗練されるかも知れないが、どこか此の世的ではない雰囲気といったものが失われてしまう。もちろんいわゆるハプニングといった要素も見られなくなってしまうのである。
 その極端な形がバトゥブランで毎日行なわれているバロン・ダンスで、そこではチャロナラン伝説からさらにヒンドゥ化が進められて、バロン・ダンスは『マハーバーラタ』のサドゥワ王子のモチーフと結びつけられてしまうのである。毎朝舞台で行なわれるバロン・ダンスは、たしかに技術的には優れたものが見られるが、もはやおおげさな演技と華やかな衣装で包まれた世俗的な舞踏劇以上のものではなくなってしまうのだ。そして、バリ島の他の地域で行なわれているバロン・ダンスも次第にそうした方向に統一されつつあるように思われるのである。はたしてバロン・ダンスも終いには他のさまざまな仮面劇同様に世俗的な余興と化してしまうのだろうか。それとも、その核心をなす宗教性はバリの人々にとって掛け替えのないものなのだろうか。もう少し検証を進めてみよう。

3
 もともとバロン・ダンスが、疫病流行、災害、天変地異など非常時のみ行なわれたということは間違いないところだろう。つまり、その仮面も普段は特定の寺院の安置所に保管されており、疫病が流行しだすとそこから引き出されて、悪霊退散のための儀礼に使われたと理解してよいだろう。それ以外では、ガルンガンの祭礼の時に四十二日間引き出すことが許されるだけだった。その時には、バロンは村中を清めて回ったり、病気を患っている人の要請があったりすると、その家まで出かけて行って踊るということもあった(2)。
 かつては悪魔祓いの臨時の儀礼が数多くこの島にも存在しており、それはいわゆる年中行事的なものとは異なって、人々にとって、かなり特別な位置を占めていたのではないかと思われる。
 ところが、そうした儀礼は近年に入って大きく二つの方向に別れるようになった。つまり、儀礼が定着してほぼ定まった時期に一定の様式で行なわれるようになるというのが一方だとすると、他方では、ほとんどオーダー・パフォーマンス以外見ることができなくなるという傾向が見いだされるのであった。
 おそらくバロン・ダンスも同じような運命をたどることになるだろうが、それでもバリという固有の風土においては、通常見られる儀礼よりもこうした種類の悪魔祓い的な要素のほうが、つねに人々の心の中に占める意味合いは大きいものであるように思われる。そのことは後の分析でさらに明らかになるだろう。われわれは議論したいのはあくまでもバロン・ダンスをその内部に含むトータルな憑依儀礼のシステムなのである。さらに、バリ島というある意味では閉鎖的な社会体系がうまく機能するためにいったいどのような儀礼システムが必要なのかという点についても追求したいと思っている。
 さて、ここで、とりあえずこれまでのバロン・ダンスの分析を、一九八八年まで調査を続けているスラプカンの場合と比較しながら、一覧表にして提示してみたい。その筋書きを大きくまとめるとだいたい表1のようになる。
 この表で明らかなことは、すでに一九三一年のデンジャランに見られる諸要素が、結局、その後のさまざまな変化をたどった後でも変わらずバロン・ダンスそのものの骨格を成していることであろう。また、バロンの登場については多少の変化が見られるのに、ランダの登場に関してはほぼ一貫した展開が見られるという点に着目するならば、このダンスの主役がもちろんバロン自身であることは否定できないだろうが、筋書き上の重点はあくまでも「ランダの登場」におかれていることが分かる。
 この儀礼は、ランダをその場に招き寄せることをまず第一の目的としており、それによって、人々の目に見えない脅威を顕在化させ、対象化させて、論理的操作が可能なものへと変換することを意図していると言うことができよう。
 それはランダが登場する時の緊張状態、そして、ランダに対するプマンクたちの念入りな礼拝行為などを見ても明らかである。それゆえに、ランダをめぐるモチーフ群も次から次へと折り重なるように増加を続け、ランダそのものは変化しないものの、その弟子たち(ランダの分身)がさまざまな名称をとって現われて、ストーリーを一層複雑なものへと変え続けるのである。
 バロン・ダンスの筋書きをさらに明らかにするため、次に一九八八年のスラプカンの場合を表にまとめてみたいと思う。

(表1)
(表2)

 この表2を先ほどの一覧表に加えてみると、さらに構成上の問題は明確となってくる。すなわち、バロンの登場時期が筋書き上ではそれほど重要性を持たないということが分かる。スラプカンでは、バロンはクリスダンサーの登場後にも現れることがあるし、また、ランダになにかアクシデントがあった場合にも、その場を一定の緊張状態に保つために登場することがある。
 さらにもっと重要と思えるのは、儀礼上の重点が普通に想像されるよりもずっと後半に置かれているということであろう。たいていのバロン・ダンスでは、クライマックスと思われる「バロンとランダの戦い」までは、実際には、儀礼の前半部に過ぎないのである。そこまでに要した時間と同じだけの分量がクリスダンサーにつぎこまれるのである。前にも述べた通り、スラプカンでは、ほとんど定式化されているクリスダンスはまったく見られない。ここで生じるトランスは、その場を大混乱に陥らせ、さまざまなハプニングを引き起こしたりするのである。
 そのおとは、一九三八年のデンジャランやパグタンの例を見てもわかる。たとえば、パグタンの場合、全体で三時間半かかったとすると、そのうちの一時間半はトランスに入ったクリスダンサーのパフォーマンスによって占められている。デンジャランでも、あるトランサーが約四十四分間トランスに入っていたとか、また、ある時は十三分しか入れなかったとかいう記録も残されているのである(3)。
 トランスの後の深夜に及ぶ聖化の儀式をとりあえず別とすれば、バロン・ダンスの焦点が、実際には、このトランス・パフォーマンスにあるというのは、いまや明らかなことではなかろうか。つまり、バロン・ダンスの原型には、集団的トランスがまず第一にあって、それがバロンという仮面仮装の存在と自己同一化するかたちで進行したのである。それはおそらくそれほど遠い昔のことではないのではなかろうか。そのことを実証するには、さらにトゥルニャンのバロン・ブルトゥクなどの検討を続けなければならないだろうが、いずれにしても、集団的トランスがなんらかの仮面仮装の存在と結びつくというのは、きわめてよく見いだされる現象であることは間違いない。
 その後、バロンに対抗する目に見えない超自然的なデーモンの形象化というプロセスが生じ、ランダの登場という事態に至ったのはある程度推測もできよう。もちろんそれは必ずしも必然的なプロセスとは言えず、あくまでも推測の域を出ない事柄だが、一九三〇年代あたりから目に見えて進んだランダの分化(実際には、ランダの弟子たちが次々と生み出されていくわけだが)は、それ自身が比較的新しい存在であることを暗示しているのではないだろうか。
 そのことは、引き続きバロン・ダンスのマッピングやシナリオ分析を続けることによって、さらに明らかにされるだろう。われわれは、すでにバロン・ダンスがその一部であるようなトランスダンスのシステムについて、別の観点から、いくらか理解を始めているのである。ともかく、もう少し調査の手を広げて、さまざまな要素を見つけ出したいと思う。ある儀礼について理解するためには、それとならぶ別の儀礼についてもっとよく知る必要があるからである。

4
 さて、われわれはこれまでバロン・ダンスおよびチャロナランの構造と機能について詳しく検討を続けてきたわけだが、次にバロン・ダンスがほとんど見いだせないバリ島東部地域におけるトランスを伴う儀礼について改めて検討に入りたいと思う。
 バロン・ダンスの分布線を越えたところでは果たしていかなる儀礼が執り行なわれているのだろうか。また、その境界線上の地域では、どのようなことが起こっているのか。われわれは、そのことを確認するため、再びG・ベイトソンとM・ミード、そして、J・ベロの業績へと戻ることになるだろう。


(1) Geerts, C., “Person, Time, and Conduct in Bali,” The Interpretation of Culutures, Basic Books, 1973, p. 400. 吉田禎吾訳『文化の解釈学』Ⅱ、岩波書店、三五三頁。
(2) 鏡治也「バリのバロン」『民族学研究』一九八三年四八巻第二号、二一二頁
(3) Belo, J., Trance in Bali, Columbia University Press, 1960, p. 115.

(うえしま けいじ・宗教学)