1993 世界思想 春号

総合小雑誌『世界思想』20号 1993春 ― 特集 遊びということ
世界思想社
1993年4月

P38- 41
お金を儲けるか、儲けないか 植島啓司

1
 なんだか人生というのは皮肉なもので、これだけは避けたいと思うような事柄に、知らないうちに近づいていくようだ。たとえば、僕は生来の怠け者で、旅行など一番嫌いなことのひとつだった。たった一度の海外留学を除けば、三〇歳まで東京から一歩も離れずに生きてきた。大阪も神戸も仙台も金沢も宇都宮も甲府も名古屋も静岡も行ったことがなかった。青森も水戸も新潟も岡山も広島も浜松も福岡も熊本も鹿児島もまた行ったことがなかった。四国などいまだに行ったことがないくらい。それなのに、宗教人類学という、旅行が仕事のような学問をやるようになるのだから、困ったものだ。おっくうだなあ、と思いながらも、一年の三分の一は海外だ。
 専門の宗教学にしても、もっとも縁遠いと思っていた学問のひとつだった。宗教そのものが、もう生理的に嫌いだった。できれば関わりにならずに生きていきたいと思っていた。そんなものに興味を持つのはバカだと思っていた。それがいったいどうしたことだろう、まさか生涯かけての専門になるとはね。もし誰かがこうなると予想できたとしたら、まさにノストラダムスだ。
 また、歌舞音曲の類はもっとも苦手とするところだった。とりわけ実家が家元だった関係で日本舞踊がイヤでイヤでたまらなかった。それが、なんと現在のテーマが「トランスダンス」である。現在なぜか宗教的な音楽・ドラマ・舞踊の研究に従事している。ライフワークになりそうである。どうしてこうなるの、といった感じ。
 そんなこんなで、すべて思惑とは正反対のところに向かっている。研究ばかりか、私生活すべてにわたって、そうなのだ。肉と野菜が嫌いだったのに、三〇歳過ぎてからは、どれも喜んで食べるようになった。こういったことは偶然なのか、それとも最初からインプットされていたのか。たしかに好奇心は人一倍強い。こわいもの見たさもある。未知のものにはつい惹かれてしまう。しかし、それにしても、ほとんど全部が正反対になるとは!自分でもとても信じられない。
 そんな中でただひとつだけ一貫しているのが「遊び好き」という性格。これは我ながら中途半端じゃない。飲む・打つ・買うが好き。とりわけ賭け事が好き。もうなんでも賭けてさえいれば大満足。勝ち負けはそれほど問題じゃない。ともかく賭けるという行為そのものに意味がある。これは本当に小さい頃からまるで変わらない。
 ぼくはそもそも遊びは大きく分けて二種類になるのではないかと思っている。つまり、お金を賭けるか、賭けないか、である。ホイジンガとかカイヨワとか、あまり遊びとは縁がなさそうな書き手がいろいろと遊びを分類しているが、その本質は、お金を賭けるか、賭けないかという極めて単純なところにあるのではないか。言葉を替えて表現すると、運の要素が強いか弱いか、ということになるのかも知れないが。
 人間誰しも自分の枠の外側に出ようともがいている。自分はもっと違った「自分」であるはずだ。現在はたまたまこうでも、あくまでもそれは現在形にすぎない。そんな気持ちを持たない人はいないだろう。恍惚とか異常な興奮状態とかに憧れるのもそう。そんな時に初めて生きていると実感できる。普通の生活は退屈だ。ちょっとした刺激が欲しい。もしかしたら、それが自分というものの正体を明らかにしてくれるかも知れない。ただし、どこまで自分で、どこから自分じゃないのかといっても曖昧で、目に見えるような境界線はない。いったい自分は何者なのか。どこに本当の自分はいるのか。そもそも自分という存在の外延はどこにつながっていくのだろうか。そんな普通では見えそうにない形姿が、ちょっとお金を賭けてみただけで、次第に見えてくる。いつのまにかはっきりと形をとって現れ出てくるのである。

2
 さて、この一週間だが、なかなか忙しかった。土曜は友人とポーカーを楽しみ、日曜はJRA、すなわち中央競馬。朝から京都競馬場まで出かけて、一日賭けまくる。月曜に新幹線で東京に移動して、ルーレットで遊びながら、朝まで飲み続け、火曜は「近代麻雀オリジナル」の企画で、プロと麻雀の対局だ。翌日もそのまま麻雀で徹夜となる。木曜に今度は大阪に戻り、原稿を書く。金曜に西宮まで競輪に出かけ、土曜と日曜はまたJRAといった具合。こんな一週間で、はたして仕事はどうなるの、と思われるかもしれないが、ご心配なく。ギャンブルと仕事は車の両輪なのだ。
 もし大相撲に賭けることができたら、いまはあまり興味がないが、たちまち好きになることだろう。サッカーのJリーグにしても、同じこと。賭けの対象になるかならないかは、実はかなり物事の本質と関わりあっているのである。たとえば、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バビロンのくじ」。
 バビロンでは「あらゆる自由民は自動的に神聖なくじ引きに参加した。くじは六十夜ごとに神々の迷路の中で行われて、次のくじが引かれるときまでのすべての男の運命を決めた。結果は計り知れなかった。幸運に当れば、僧侶の評議会員にまで昇進したり、敵(公的でも私的でも)の監禁を宣告したり、自分の部屋の平穏な暗がりに、彼の心をかき乱しはじめていたが二度と再び会えないと思っていた女を見つけることになったりした。逆の場合は、手足を切られたり、さまざまな不名誉や死となった」(『伝奇集』)。
 しかし、別の観点から見ると、これほど公平な制度もない。ということに気づく。バビロンは、本当の意味での完全に平等な社会といえるかも知れない。すべての人に平等にステイタスを得る機会が与えられているからだ。くじに依拠する社会、それはわれわれの社会のネガであり、同時にポジでもあるのだ。

3
 通常ならばなんでもない道が、高度一〇〇メートルとなると、途端に怖くなる。ギャンブルもそれと同じこと。賭け金によって同じ遊びが違った様相を呈するようになる。平穏な毎日を生きる自分と、次第次第に高度が上がっていく中におかれた自分とでは、物事に処す仕方に大きな違いが出てしまう。普段ならば笑える時に笑えない。泣く時に泣くことができない。考える内容さえもが違ってくる。同じ事柄を、ある時は肯定するのに、ある時は否定する。いったいどっちが本当の自分なのか?
 遊びは、「これは遊びだ」という隠された規則のもとで行われる。あくまでも現実とは一線を画しているかのように見える。しかし、もしかしたら逆はどうだろうか。はたして現実そのものが遊びの一部だと考えられないだろうか。遊びにおいては、われわれのテンションは異常に高められる。退屈な遊びは、誰もやらない。つい夢中になって、何もかも忘れてしまう、それが遊びというものだ。逆にいうと、そうしたテンションを維持できれば、外見はともかく、すなわちそれが「遊び」なのだ。
 どうもこのところ遊びに貪欲で、いかに仕事があっても徹底的に遊ばないと気が済まない。途中で止めるくらいならば、まだしないほうがまし。死ぬまで徹底的に遊んでみたいものだ。しかも、勝っても負けても平然としていられるような遊びではダメ。血だらけになるような快感が欲しい。「遊びは身を滅ぼす」って?それこそこちらの望んだとおり。
 さて、先ほど遊びには二種類あると書いた。どうなっても自分が維持できる遊びと、自分さえもが賭け金となりかねない遊び。それはお金を賭けるか、賭けないか、という極めて即物的な分類とどこかで重なる、とも書いた。実は、そこではお金はただ単にお金ではない。それは「抑制できない感情の動き」そのものなのだ。それを使って何も買うことができない。ただそれは現在の自分の「運」の量を告げるだけなのである。


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