2011 週刊文春 12/15号

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週刊文春 2011年12月15日号

文春図書館 活字まわり
「世界の全ての記憶」 植島啓司 11

 先日亡くなったスティーブ・ジョブズについては数多くの本が出版されているが、なんといっても心をうつのは二〇〇五年六月のスタンフォード大学の卒業式で行なった祝辞に尽きるだろう。一般に。最後のフレーズ「ハングリーであれ、愚か者であれ」でよく知られているが、それよりむしろ、多くの人を前にしてしゃべるときのバイブルとして読まれるべきだと思う。短いスピーチは、まず「今日わたしがお話したいのは、わたしが人生から学んだ三つの話です。それだけです。たいしたものではありません。たった三つです」で始まる。スピーチのうまい人は、このように話が簡潔で、メリハリのついたものであることを暗に告げることから始める。
 そして、その三つとは、みんなが期待しているような成功話ではなく、ハウツーでもなく、自分が人生で経験したもっともつらいことばかり。他人に話したくないことだから、聴衆もつい耳をそばだてる。よい話し手は決して自慢しないのだ。一つめの話は、自分が幼い頃養子に出され、生みの親とすぐに離ればなれにされたこと、そして、学費を払うのに汲々として自分から退学を決した経緯(いきさつ)であり、二つめは、自分がつくりあげたアップル社から追放された話、三つめは一年ほど前にすい臓がんで、余命数か月の宣告を受けたことだった。
 ジョブズはそれらの苦境をどう切り抜けてきたかを語る。たとえば、アップル社からの追放も、いったんは悲惨な境遇になったけれども、「人生でもっともクリエイティブな時期にもう一度入ることができました」と振り返る。人生では時々とんでもなく悪いことがいっぱい起こらないといいことも起こらない。彼はそれを「あなた方の時間は限られています。他の誰かの人生を生きて無駄にしてはいけません」と前向きのメッセージに変えている。スピーチのお手本がここにある。


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