2001 福神 第6号

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福神 第6号

福神研究所(不定期刊)
2001年5月19日

P35- 46
精神分析から観音信仰まで(1) 
救いなんていらない  植島啓司

 世界中の聖地をめぐって20年。昨年来しばらく体を休める時期に入ったかと思っていたのだが、10代の頃からの放浪癖はいっこうに直りそうにない。ひとりで部屋に閉じこもっていてもいっこうに落ち着かないのだ。それならば、仕事とはまた別にできるだけ遠くに行ってみようと思い立った。ブエノスアイレス。それが昨年10月のことである。

 ブエノスアイレスに何があるかなんてことは別にどうでもよかった。ともかくこの地球上で日本からもっとも遠い場所であることだけは確かなことだし、しかも、地理的にだけではなく社会的にも日本と正反対だという知識もあった。香港映画「ブエノスアイレス」の主人公たちも、そんな思いからブエノスアイレスを目指したのではなかったか(レスリー・チャンの根無し草ぶりがすばらしい)。

 この世の果てはいったいどこだろう。ウシュアイア。ブエノスアイレスからさらに飛行機で南に3時間半、マゼラン海峡を越えたところにその小さな町はある。そんなところで人々はいったいどんな生活を送っているのか。まあ、そんなことだって別にどうでもいいことなのだけれども。

 そもそも人間はそろいもそろって大馬鹿者で大事なことに時間を使わないようにできている。映画館で至福の2時間を過ごすことはできても、同じ映画を家でビデオで見ることができない。どうしても時間がもったいないと感じてしまう。のんびり映画など見ていて果たしていいのだろうか?もっとなすべきことが他にあるのではないか?つい腰が落ち着かない。その点、旅はそうした時間感覚を微妙に修正し癒してくれる。われわれが大事な時間だと思っているものほど実は無意味なのかもしれない。本当に大事なものはもっと別のところにひそんでいるのではないか。いずれにせよ、旅する以外にそれを知る方法はないのである。

 しかしながら、素人目に見ればブエノスアイレスにはあらゆる種類の快楽があるように見えるだろう。ピアソラの音楽(タンゴ)、ボカ・ジュニアーズのサッカー、マル・デル・プラタのカジノ。これに酒と女さえあれば、むしろ、それ以外に必要なものを探すほうが難しい。では、ぼくはそれらに陶酔するために出かけようとしているのか。それとも、もっと別の何かのためか? 

 そんなことを考えていたら、たまたま今年に入ってNHKが「世界わが心の旅」という番組でどこかへ行かないかと提案してきてくれた。ぼくは即座に「ブエノスアイレス」と答えた。しかし、こうしたタイミングのよさは警戒しなければならない。幸運と不運はつねにコインの裏表のようなものだからだ。

01/ 22(月)
 
成田を発ってからシカゴを経由してブエノスアイレスに着くまでに2度夜を迎えることになった。はじめはシカゴ到着前、そして2度目はアマゾン上空で。ちょうどアマゾン河上流を飛んでいるときのことだが、地上は暗くてよく見えなかったのだが、天空には異常な数の星が輝いておりみごとに美しかった。

 ホテル・ブリストルに到着した夜のこと、深夜11時(でも、こちらではそれほど遅くない)、7月9日大通りを渡ってみた。キオスコで「ナシオン」紙を買うと、店番をしていた中年の男が話しかけてきた。なんと日本語も少しできる。「日本はほんとうにいい国だ。みんな努力している。それに対して、われわれはみんな空から幸運が落ちてくるのをただ待っているだけ」と話し出す。「それはそれでいいんじゃないか」などと適当に相づちを打つ。ただ途中で、「信仰はあるのか?」と聞くと、「宗教はただ慰めるだけでダメね。もっと自分の力をつけないと」という返事。彼の名前はオマルブランコ。気がついたら30分以上も話し込んでいた。

 部屋に戻ると、テレビでマル・デル・プラタでのサッカー暴動の模様をながしている。催涙弾でスタジアム騒然。それこそ求めるもの、血が騒ぐ。熱中できるものがあるということは、それだけで好ましいことだ。

01/ 23(火)
 熟睡。ビールを飲んでから、ひたすら街を歩く。どの本屋にもフロイトだのラカンだのが当たり前のようにならんでおり、不思議な感じ。精神分析がいかにこの街になじんでいるかを再認識する。そういえば、昨日のキオスコにボルヘスが並んでいたし。32度近い暑さ。

01/ 24(水)
 ルハン大聖堂まで約1時間のドライブ。ルハンでは時間の流れがまったく違う。ただ郊外に来たというのとはちょっと違った感じ。撮影、インタビューの後、修道院でフランス料理を食べる。といっても、ラビオリとかシーザースサラダとか簡単なものばかりだが。雨が降りそうで降らない。暑くて横になりたい気分。
 しかし、18時になって、天候急変。激しい雨が急に車の窓を打つ。まさにスコールといった感じで、赤道直下の熱帯で過ごしていたときの気分が甦る。いったいなぜ自分はここにいるのかという問いさえも拒絶するほどの激しい雨。

01/ 25(木)
 精神分析はウィーンのユダヤ人フロイトが開発した20世紀西欧の最大の売り物のひとつであるが、それが人々の生活や文化にまで根を下ろしたのは、西欧ではなく新大陸である。しかも、その新大陸もほんの一部であり、北はニューヨーク、南はブエノスアイレスだけと言ってもよい。それというのも、このコスモポリタンな2大都市こそは、世界中でもっともユダヤ移民が多い地域だからである(大嶋仁『精神分析の都』作品社)。

 なぜブエノスアイレスでそれほど精神分析が根づいたのか。なぜ他の解決法ではなく、精神分析だったのか。それもぼくがブエノスアイレスに興味を抱いたきっかけのひとつだった。

 9時30分、ブエノスアイレス中央精神病院に到着する。ところが、予定していた医師が昨日の大雨により家が浸水したため来れないというアクシデント。そういえば、朝刊にも浸水した家屋の写真がでかでかと載っていたのを思い出す。仕方なしに病院長ら3名とインタビューを続けるが、内心これからどうすべきか考える。

 そして、結局、そこに同席したコサック医師にぼく自身の精神分析を依頼することにした。ただ外側から観察するというのではなく、自分で精神分析を受けることからスタートしようと思ったのだった。

 ただ、精神分析といっても、TVカメラが回っているという異常な状況で、しかも英語でブエノスアイレスの医師とやるとなると、いろいろと大変だ。いったいどこまで話せばいいのか、また、どうやって編集するのか。

 コサック医師はきわめて誠実な人物だった。そして、それゆえにちょっとやっかいなことになった。最初はカメラが入ってもいいとのことで、しかも、スペイン語通訳付きでという話だった。だが、彼が主張するには、撮影が入っては精神分析などできない、しかも、精神分析は言葉の力を利用するので、通訳など問題外とのことだった。ごく当然のことかもしれない。形式だけ精神分析のかたちをとるなんてとんでもないということである。そんなつもりはなかったのだが、言われてみればたしかにそのとおりなのだった。

 ぼくが精神分析を受けるというところまでは最初から決まっていた。だが、それをどう撮るのかまでは詳しく考えていなかった。どうにかなるだろうという安易な考えがあったのは事実。さて、コサック医師にそう言われて、われわれは動揺した。なんとかしなければいけない。しかし、本当のところ、問題は二重にやっかいなのだった。まず、お互いに外国語で話さなければならないということ、それから、ほんとうにこころに問題があればテレビの前でなど話せないはずだということだった。まあ、そんなにかたく考えなくともと思ったりもしたのだが、たしかにコサック医師の言うことにも一理ある。

 結局、ディレクターのM氏と相談した結果、カメラは入るが、スタッフは全員外に出て、2人だけで行うことにしてみた。通訳はなし。しかし…..(つづく)


(TV)NHK「世界・わが心の旅」


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