2001 ネイチャーインタフェイス

NPOウェアラブル環境情報ネット推進機構(WIN)機関誌
総合環境情報誌 ネイチャーインタフェイス 第5号
2001年11月10日


special feature 感性のコミュニケーション…04 
恋愛のディスクール 
植島啓司

いまから一五年ほど前、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳、みすず書房)を題材に連続講義をやったことがある。幾度読み返してもさまざまな感想が浮かび上がってくる本なのだが、なかでもずっと気になる一節があった。以下、全文。

昔、中国の高官が歌姫に恋をした。「わたしの部屋の窓の下で、床几にすわって百夜お待ちくだされば、あなたのものになりましょう」、女はそう言った。九九日目の夜、くだんの高官は立ち上り、床几をこわきに立ち去ってしまった。

もう後一日で彼女が手に入るというのに、なぜ彼は九九日目に立ち去ってしまったのか。いったい彼の心の中で何が起こったのか。さまざまな解釈が可能だろうが、当時はうまく説明がつかないような気がして講義ではついに取上げる気になれなかったのだった。

 しかし、それからしばらくして(たしか一九八九年頃か)、「ニュー・シネマ・パラダイス」というイタリア映画(正確には伊・仏合作)が大ヒットしたことがあったのだが、偶然その映画のなかで同じエピソードが登場してきたのだった。映画の後半で、映写技師のアルフレードが主人公のトトに語りかけるシーン。

アルフレード「昔、ある王様が宴会を開いた。王国中の美しい女性が集まった。護衛の兵士は、その中で一番美しい王女に恋をした。だが、王女と兵士では、どうしようもない。ある日、ついに兵士は王女に恋を打ち明けた。王女は彼の深い思いに驚いて言った――S日の間、昼も夜もバルコニーの下で待ってくれたら、あなたのものになりましょう﨟と。兵士は、バルコニーの下に飛んでいって、雨の日も風の日も雪が降っても動かなかった。そして九〇日が過ぎた頃には、兵士はひからびて真っ白になっていた。九九日目の夜、兵士はついに立ち上がって立ち去った」

トト「最後の日に?」

アルフレード「そうだ。話の意味はわからない。わかったら教えてくれ」

そう言って、彼は立ち上がって歩き出すのだった。

多少設定の違いはあるが、どちらも同じ物語を根拠にしていることは間違いない。映画ではこのエピソードが伏線となって、トトの初恋が成就することになるのだが、なぜこのエピソードが唐突に語られたのかはよくわからなかった。そして、いったい兵士の心に何が起こったのか。同じ疑問がそのまま残されただけなのだった。

 もちろん考えられる理由はいくつもある。

 兵士は自分のばかげた行動が怖くなったのかもしれない。そんなことをしても、おそらく彼女は自分の手に入ることはないだろう。あまりに身分が違いすぎる。いったい自分はなんという愚かなことをしているのか。そう思っても不思議ではない。

 もしくは、これはただひたすら彼女の気まぐれ(自己満足)に過ぎない。最後に彼女は自分を裏切るに決まっている。果たして自分はそれに耐えられるだろうか。そう思って結局その場を逃げ出したとも考えられる。

 また、ほとんどありえないことかもしれないが、九九日間そこにたたずむことによって、兵士は何か満足すべき別の理由を見つけたということもあるだろう。

しかし、それから長いこと、ぼくはこのエピソードについて忘れてしまっていた。ところが、つい最近、白石一文の『一瞬の光』(角川書店)を読んでいて、またまた不意にこのエピソードにぶつかったのだった。

 主人公の橋田はかつて恋人の瑠衣と見た「ニュー・シネマ・パラダイス」のことをタクシーの中で思い出す。「恋に取り憑かれた若い主人公に、父親代わりの老人が語って聞かせる話だ」。そういって、例のエピソードが語られるのだが、気になるのはその結びの言葉。「映画の後半で、なぜ兵士が最後の日に立ち去ったのか、その答えを主人公は見つけ、老人に告げたはずだった。だが、いくら考えても、それがどんな台詞だったか私には思い出せなかった」。

 えっ、と思った。いったいどこで「その答えを主人公は見つけ」たのか? あの映画の結末にそんな展開が果たしてあっただろうか? なにはともあれ、一二年ぶりに改めて「ニュー・シネマ・パラダイス」を見てみることにしたのだった。

 しかし、映画はやっぱり記憶していたとおりに 進行し、そのまま予想通りの結末に至ったのである。いっさい説明も何もなかった。トトは雨の日も風の日も恋人(エレナ)の家の下で、彼女が自分のためにベランダの扉を開けるのをひたすら待ち望んだ。そして、兵士のエピソードとは裏腹に、彼の思いはいつしか彼女に通じたのだった。

 ただ、ひとつだけ引っかかったのは、その後日談、すなわち、トトの徴兵をきっかけに二人の関係は脆くも壊れてしまった、と物語が続いている点だった。なんと二人の恋は決して成就したわけではなかったのである。

 つまり、「なぜ兵士が最後の日に立ち去ったのか」についての映画の説明は、あえて言うならば、「いかなるかたちにせよ恋は決して自分が望んだかたちで成就することはないと悟ったから」ということになるのかもしれない。もっとも純粋なかたちで恋を凝視するとしたら、二人の恋は「彼が九九日間そこで待っていた」ことのみに還元されることだろう。それより美しいかたちが果たしてこの世にあるだろうか。兵士は九九日目にそれを悟ったというのである。

最後にちょっと蛇足になるが、心に湧き起こる不可解なものを通してしか、われわれはこの世界を理解することができない、ということをここでお断りしておく必要があるだろう。それはコミュニケーションとはまったく別の問題なのである。いつしか成就した出来事よりも決して起こらなかった出来事のほうが、われわれの心に大きな影響を与えるということが理解されるようになるであろう。

植島啓司[うえしま・けいじ]
関西大学文学部教授(宗教学、倫理学)

natureinterface ( http://www.natureinterface.com/j/ni05/P20-21/ )から引用