2011 週刊文春 9/15号

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週刊文春 2011年9月15日号

文春図書館 活字まわり
「世界の全ての記憶」 植島啓司 8

 「最近おもしろい小説をよんだだけど」とある有名作家の夫人が電話してきたことがあった。どうやらフランスで話題になった本の翻訳が出たところだったらしい。
 当時つきあっていた二十代のグラマーな女の子と会ったときにその本のことをしゃべると、「わたし、すごく読みたい」と言う。「で、タイトルは?」と聞かれ、なにしろ電話口でペラペラッと言われただけなので、「たしか『神父の情熱』だったかな?」と言うと、彼女はすぐに本屋へ走っていった。
 一、二時間後、彼女が赤い顔して戻ってきて、「わたし、恥かいたわよ。なにが『神父の情熱』よ」と言う。「本屋の店員さんがえらかったんで見つけてくれたけど」。タイトルはアニー・エルノーの『シンプルな情熱』(早川書房)だった。
 当時エルノーは43歳。帯の「成熟した女性の<性の真実>をストレートに描いたベストセラー」というような惹句にひかれて、ぼくもすぐに読んだのだけど、”女は男と特別な関係になると相手にいろいろ期待しがちだけど、わたしはひたすら彼を待っている時間だけがかけがえのないものに思えたわ”といういさぎよい告白物で、男性よりも女性読者に大人気だったらしい。
私はまた、彼と何回交わったか、足し算してみたものだ。毎回、新たに何かが私たちの関係につけ加わるように思えたけれど、しかしまた、そのほかならない行為と快楽の積み重ねによって、私たち二人の間が確実に隔てられていくのだとも、私は感じていた。
 これを書くのに、久々に本を開いてページをめくっていたら、一枚の紙片がぱらりと落ちた。グラマーな女の子のかわいい文字で名前と連絡先が書いてあった。彼女とはいつしか別れてしまったけれど、いまごろどうしているんだろう。性を即物的にというか愛情から引きはがして扱うというのもなかなかむずかしいものである。


note:
アニー・エルノー『シンプルな情熱』ハヤカワepi文庫(2002年)