2011 en-taxi Vol.33

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ODAIBA MOOK
Vol. 33 Summer 2011
特集=マイ・リトルプレス、思い出の小出版社、雑誌

株式会社扶桑社
2011年7月30日発行

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P38- 41
植島啓司「名編集者・中野幹隆との出会い」

 ぼくが大学生だった一九六〇年代後半から七〇年代にかけては雑誌の黄金時代で、それからの十年間に、例を見ないほど多くの雑誌が創刊されたのだった。まだ大学に入ったばかりのぼくらはもちろんその大きな影響を受けることになった。当時は、まず雑誌に目を通して、主要なトピックについての知識を得てから、それをもとに単行本を買って読み、その巻末の注から論文を探し、さらに問題意識を深めるというようにして物事を学んでいったのである。

 ぼくは雑誌フリークで、ほとんどの雑誌に目を通していたのだが、特に好きだった雑誌を挙げると、『現代思想』(一九七三年創刊、以下年代は創刊を指す)、『パイデイア』(一九六八年)、『海』(一九六九年)、『エピステーメー』(一九七五年)、『カイエ』(一九七八年)、『現代詩手帖』(一九五九年)、『ユリイカ』(一九六九年)、『流行通信』(一九六六年)、『スタジオボイス』(一九七六年)など、それ以外にも『知の考古学』(一九七五年)、『牧神』(一九七五年)、『詩と思想』(一九七二年)など、出ては消えるような(しかし良質な)雑誌も少なくなかった。当時は夢中になって雑誌を買い集めたものである。

 そんななかで、もっとも刺激を受けた記事といえば、一九七〇年の『日本読書新聞』に載った「聖なるものの復権」という特集だった。いまでもスクラップして取ってあるその記事は、たまたま同時期に刊行されたM・エリアーデ『聖と俗』、R・カイヨワ『人間と聖なるもの』をもとに、新しい宗教研究の方向性を指し示してくれるものだった。これまでのキリスト教や仏教を中心とした大御所による重厚な研究ではなく、軽くステップを踏むような客観的・実証的な宗教研究がようやく日本に導入されようとしていたのである。なにより新鮮なのは、神でも仏でもない、もっと根源的な「聖なるもの」がテーマとなっている点で、その言葉の響きがなんとも魅力的だった。

 そんなふうに毎日雑誌を熟読していたせいか、ぼくのデビューも早く、まだ大学院に入るか入らないかという頃に、いくつかの雑誌から短い原稿を頼まれるようになっていた。そして、一九七三年、『詩と思想』に「熊野本地譚と聖なる表徴」という二十枚の原稿を書いたのが実質的なデビューとなった。それからしばらくして、朝日新聞社『週刊植物百科』に「聖なる植物」という連載を始めることになるわけだが、中野さんと出会ったのはその前後のことだった。

 どうしてぼくに声をかけてくれたのかはいまだによくわからない。ただ、神田の朝日出版社に呼ばれ、初めてお会いしたときに、どんな雑誌を読んでいますかと聞かれ、『パイデイア』『日本読書新聞』『現代思想』などを愛読していますと言うと、ほほっと笑いながら、「それはみんなぼくがつくったものですよ」と事もなげに言われたのはよく覚えている。ぼくは(口には出さなかったが)絶対ウソか大ボラにちがいないと思ったのだった。

 しかし、後にわかったことだが、たしかに彼は二十代半ばで『日本読書新聞』の編集長となり、ぼくに大きな影響を与えた特集「聖なるものの復権」を仕掛け、その後、竹内書店に移って、季刊『パイデイア』のミシェル・フーコー特集などを手がけ、さらに、青土社で『現代思想』を創刊するという超人的な活躍をしてきた人なのだった。

 それからはことあるごとに声をかけてくれるようになった。当時のぼくは大学院に進んだばかりで、フランスの神話学者ジョルジュ・デュメジルの著作を全読破しようと、一日中東大の中央図書館にこもっていた。まだ一冊も翻訳紹介されたことがないこのフランスの碩学については、一生かけて研究するに値する人物だと早くから目をつけていたのである。一九七四年、それをもとに修士論文「ルペルカーリア祭における儀礼と伝承」を書き、博士に進んだら全訳を試みようと思っていたのだった。

 中野さんは、その翌年の一九七五年に雑誌『エピステーメー』を創刊し、ポストモダンの先駆的な仕事に取りかかろうとしていた。そして、そこでもJ・F・リオタールの翻訳を依頼してくれたり、いろいろ意見を聞かれることも多く、彼に信頼されていることを素直によろこんでいた。

 ぼくは一九七六年の夏からシカゴ大学の大学院に留学することが決まる。英語はまだとても通じそうもなかったが、東大の博士課程まで四年間みっちりデュメジルを研究したという自信があったので、学問の不安はまったくなかった。

 そんなわけで、一九七七年のシカゴ大学の大学院ゼミで「スキュタイのエナレスについて」という地味なタイトルで発表したのが、後の処女作『男が女になる病気』になるわけだが、そのとき、たまたま日本から神話学の泰斗・松前健氏がやってきていて、ぼくの発表を聴きたいと言われ、ものすごく緊張したのを憶えている。当時は日本からの客を相手するのがぼくの仕事ともなっていて、柳田國男の三女・三千さん(宗教学者・堀一郎夫人)をエリアーデのところに案内したり、なかなか忙しい毎日を送っていたのである。

 当時のシカゴでは、ほとんど日本のものは手に入らなくて、電話代も高くてなかなか使えないし、ひたすら孤立感を深めていた。ちょうど書き手として売り出したばかりで、もし日本にとどまっていたら仕事の依頼も当然あっただろうと思うと、居ても立ってもいられない焦燥感に駆られることもあった。そんなわけで、シカゴにいた当時もっとも欲しかったのは日本の雑誌で、それでも手に入れるまで三か月は優にかかったのである。その間、中野さんからは何の連絡もなかった。

 その頃の中野さんは一九七五年に創刊した雑誌『エピステーメー』にかかりっきりで、さらにロラン・バルトやミシェル・フーコーらの著作を中心に現代フランス思想を紹介していく「エピステーメー叢書」というシリーズを始めたばかりだった。小林康夫、丹生谷貴志、細川周平らが出入りを始めたのもおそらくその頃のことだろう。

 ぼくの処女作『男が女になる病気』は、そんなわけで、一九七七年にシカゴ大学の大学院の講義に提出するレポートとして書かれたものだったが、一九七九年に帰国してすぐにエピステーメー叢書の一冊として出版されることになった。その叢書は当初科学関連の本も多かったのだが、次第にフランス現代思想の最先端を行くシリーズとして定着しつつあった。しかし、まさか自分がロラン・バルトやミシェル・フーコーと一緒にそこに名を連ねることになるとは想像もしなかった。まだ大学院の学生によくもそんな大それた依頼をしたものである。後にニュー・アカデミズムの流行が起こり、多くの新しい書き手が登場することになるが、中野さんはその先駆けのような役割をぼくに期待したのだった。

 しかしながら、一九八〇年に本が出た直後の中野さんの言葉は耳を疑うものだった。彼は、飯田橋のホームで「だいたいどんな本でも理解できないことはないんだけど、この本だけはまったく理解できなかった」と笑いながら言ったのである。さすがに唯一の理解者にそう言われてぼくは落ち込んだ。彼が理解できないというのはいったいどういう意味だったのだろうか。それでも、一方で『文藝』(一九八〇年八月号)に発表された澁澤龍彦さんの好意的な書評とか『週刊朝日』に載った書評とかを持ってきてくれて「絶賛してくれる人もけっこういるんですね」と言ってくれもした。

 その後も、構想中の雑誌『モノンクル』について意見を求められたり、「科学の名著」シリーズを出すにあたってアドバイスを求められたりもして、しばらくは友好な関係が続いたのだが、そもそも新しい精神分析雑誌を目指す『モノンクル』にぼくがやや批判的だったりしたこともあって、そのうち彼との関係は疎遠になっていったのだった。

 ぼくはもともと一人の編集者と一緒に仕事をするタイプで、ずっと中野さんについていこうと思っていたわけだから、それからはさすがに方向性を見失ってしまったのだった。ちょうど一九八〇年に関西の大学に職を得たこともあって、ひたすら講義に集中することによって雑念を払いのけていたのだが、スランプは思いのほか長く続くことになった。

 そこから抜け出すきっかけを与えてくれたのはリブロポートの編集者・石原敏孝さんだった。彼のもとで『分裂病者のダンスパーティ』(一九八五年)を書いて以降は、『メディア・セックス』、『ディスコミュニケーション』などを立て続けに発表することになっていった。女性誌などでの連載も始まり、すべてがこれまでになく順調に進んでいくように見えた。

 一方、中野さんは、その頃からさらに難解な問題に着手するようになり、哲学書房を立ち上げ、一九八〇年代後半からは『季刊哲学』の発行に至る。『季刊哲学』は意欲的な雑誌で、全巻愛読させてもらったが、特に第三巻・特集「視線の権利」のM-F・プリサールの写真には心底参ってしまった(後にプリサールに写真を使わせてほしいと連絡したが実現しなかった)。さらに、中野さんは「科学の名著」シリーズの続刊として、美しい装丁のデカルトやベルナールの著作を出し続けていた。当時もたまに朝日出版社を訪ねる機会があったのだけれど、一巻六五〇〇円もする高価な本を惜しげもなくくれたのは本当にありがたかった。しかし、何もお返しできないまま、ぼくらは次第に没交渉になっていったのだった。時々耳に入るのは、どうやら中野さんは健康を害しているらしいというウワサばかりで、その真偽も確かめようがなかった。

 一九九〇年、ニューヨークの大学に客員教授として出かける頃には、すでに音信不通の関係になっており、もはや彼が何を望んでいるかもわからなくなっていた。人間同士はいったん離れるとこんなにも遠くなってしまうものなのか。後で知ったことだが、彼は数年間の闘病生活の後、二〇〇七年にガンで亡くなったとのことだった。中野さんの存在なしには、いまのぼくはこの世にいなかっただろう。では、ずっと一緒にいられたとしたらどうだっただろう。いまでも、ほほっと笑うときの彼の表情が忘れられない。中野幹隆さん、そして雑誌の時代よ、永遠なれ。


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