週刊文春 2011年6月2日号
文春図書館 活字まわり
「世界の全ての記憶」 植島啓司 5
このところ震災があったり、津波がきたり、原発がメルトダウンしたりして、やたらに死が身近なものに思えるようになったけれど、なぜか自分の身が危ないという実感はない。一方で、そうした不幸を一歩下がって見ている自分がいるのだ。
ボクは前に、「家庭から死人を出すというのは、たしかに不幸なことではあるが、いいことである。死体を見ておくことはいいことなのだ。と書いたことがありますが、それは、体験すれば死がわかるということではなくて、その逆なんです。身近な人が死ぬと、死が不思議なことだと気がつくからなんですね。
南伸坊『ぼくのコドモ時間』
伸坊さんはここで自分の姉の死について語っている。それを幼かった自分が果たしてわかっていたのかどうかと。でも、「わかる」っていったいどういうことなんだろう?それが、なんだか不思議なものだとわかるというのは、その正体を白日の下に暴き出すことより、はるかに大事なことではないのか。子どもは自分の身のまわりで起こったことをそう簡単に「理解」しようとしないのだ。
買い物依存症の頃から、「暴走する愚かな自分」を他人のようにせせら笑いながら観察し、記録し、分析する「もうひとりの自分」を、脳内に育てて来た。そうしないと、生きていけなかったのだ。自分があまりにも忌まわしくて。
同じく好きな作家・中村うさぎさんの『私という病』(新潮文庫)からの引用。「中村うさぎ」といえば買い物依存症で名を上げ、整形に挑んだり、デリヘルやSM嬢までやって、いったい彼女はどこまで行くのか、と読者を心配させたものだった。伸坊さんやうさぎさんの文章を読むと、学者とか文化人にもっとも足りないものが何かわかってくる。彼らが言う「わかった」は本当には「わかってない」のである。